gと烙印(@アニメてにをは)

ジブリにまつわる回想、考察を書いていきます。

gと烙印:その10~(00:オリジナル版です)

gと烙印その10―流れに任せて書いてみたら何気に情報豊富

のオリジナル版です。
無駄話の部分もカットせず、長尺のままお届けします。
改行一行あけも含めて原稿用紙62枚になります。
適度に休みながらお読みください。
これをあの当時(7~8年前)ひと晩でぶっとおしで書いたのでした。

この続き物は、親しい相手でなければ、信頼できる相手でなければ、吐露することのない、ジブリに関わる話だった、という趣旨をちょっと(かなり)忘れていた。

誰も彼もウジャウジャいる空間、パブリックな場所では話したくない内容。でも実はこういうことも理解してもらえたらなあ、ということを書きたい。ウジャウジャいるところでは野次がすごいし(実際すごい)、じっくり話せない(多くのひとはもっと下世話に分かりやすい話題を欲しがるだろう)。

この場所(フェイスブック)でも、読みたくない人は流しているだろうと分かるから、その程度のものとして書けるようにしたい。

ただ読んでくれている人には、読んでくれているだけでありがたいので、あまり不快な思いをさせてはいけないと少し反省しています。

読む人は読む。読まない人は読まない。

その温度が分かってきました。

いままでは、「これ、誰か読むんだろうか? ひとり相撲になってやしないか。だったら好き放題書いてもいいや」と、怯え半分、開き直り半分でした。それで段々変な方向に流れていました。ちょっと軌道修正できれば。

僕のムラッ気の性格ですから、変な方向にまた突然振れるだろうとは(そういうときの自分を苦々しく反省しつつ)そうなるときはあるだろうとは予想できつつ、しかし軌道修正は少しずつしていくしかないのだろう。

さて、大事なことを話し忘れていた。

僕がジブリで働く気になったのは、そこで作り手になろう、という意志があったからだ。

自分でも忘れていた。

それにこの十数年、僕にジブリのことを聞いてくる人は沢山いたが、僕が作り手の見習いとして雇われた側面に興味を持つ人がひとりもいなかったので、僕自身がそうだったことに忘れる始末だ。

演出助手という呼称がよくないかも知れない。

実写映画だと助監督だ。「助監督ということは、いずれ監督サンに?」という問いが出そうだが、聞き慣れない演出助手という言葉ではピンと来ず、みな興味本意な割に無知な自分を恥ずかしそうに隠して次の問いにモゴモゴしてしまっているのかもしれない。僕自身この役職名の通じにくさに、あわてて「監督の下で雑用仕事するんです」と説明するので、本当に雑用だけが目的でやっているだろうなと思われても仕方がない。そんな雑用サンに「いずれ監督サンに?」なんて、もしかしたら失礼な質問になってしまうのでは、そんな配慮があったかも知れない。

でも正直なところ、大方のひとは、僕がどんな立場でジブリにいたのかなど、興味もないから聞かなかっただけのことだろう。

さて、将来の演出家(監督サン)と期待されて雇われ、本人もその気満々だった若者が、十数年を経て、作る手段をもぎとられて今、どうあるか、そういう話から今回は始まります。

相変わらず前口上やら迂回が長くなりそうです。本筋が何か段々分からなくなって来ます。そういうのも一度書き切ってみようと思いました。

でも、基本的には「読んでいてくれる人も、回によっては読みさしたり、読みすごしたりするだろう」という当たり前なこともようやく分かってきたので、今までも意識せずそうやってきましたが、今後は意識的に、繰り返しを厭わず別な話題と混ぜながら書いていこうと思います。今回は特に冗長です。でもここに書かれていることは、いつか別の機会に、少し装いを変えて、また書くことになるでしょう。

なので、この長たらしさを楽しめる人だけ読んでくだされば。途中でやめていただければ。変てこな読む体験をしたい人向けかも。

いまボランティア作業に不定期に従事している。

映画上映のボランティア作業だ。

かつては十数軒あったといわれる松本市内(中心市街)の映画館もいまやひとつもなくなった。国道沿いの、市内とはいえ近郊といっていい辺りにひとつシネコンがあるだけだ。

中心市街に映画館が残っていた頃から、すでにミニシアター系の映画を上映する経済的余裕が興行主にはなかった。

そんなわけでもう四半世紀以上前から、あちこちの映画館のいちスクリーンの・そのひとときを借りて、インディペンデントにそういう映画を上映していたのが、いまボランティアで手伝っている映画上映NPO主催のおやじさんだ。

ボランティアに従事しているひとたちはやはり映画好きだ。

とは言え、年齢も好きこのみもバラバラだ。あまり映画の話をしない。作業を黙々とやり、合間に交わす会話と言えば、会社のさほど親しくない同僚としているような通り一遍な時候の挨拶的なものだ。

たまに他のスタッフ同士で映画の話題で盛り上がっていたりする。最近の映画らしいが僕が見ていない映画だ。話に加わることもできそうにない。

というより、最近映画を見ていない。レンタルでも見ていない。せっかくなのだからボランティアで手伝って上映している映画を見ればいいじゃないかとも思うが、見る気がしない。

そんなんでまあ映画上映のボランティアに加わろうと思ったものだ。

我ながら謎だなあと思った。

いやまあ、映画を身近に感じることで、世の中にはこんな映画やあんな映画があるぞと、そんなことも知らないのか君は、と自分を叱咤するためにどうやらこの作業に加わっているのだ、というのがしっくりくる解答だ。「世の中には映画というものがある、という緊張感をみずからに引き寄せる」、そう表現も出来る。

こう書いてみると、改めて思い直すように、映画の話をしない人ばかりじゃなかったなと思い出す。

ボランティアの何人かはとても映画の話をしている(僕は加わらないけど)。

遠くから聞きながら、最近の映画の動向をすごく良く知っているなあと驚く。若いうちならフットワークが軽かろうが、中年やら高年の人でも、東京オンリーの映画や特集上映のために休日返上して東京まで映画を見に行っている。嫌味抜きで頭が下がる。僕がいま、東京で特別な何かをやっていたら・自分に興味ある何かをやっていたら、東京へと迷わず足を運ぶ、そんなものがあるだろうか。そんなことをいま考えついて、打鍵を止めてちょっと考えてみたりする。

なかなか思いつかないので一服しながらさらに考えてみる。

やはりない。というかこれしかない。家族か友人の葬儀ぐらいでしょう。婚礼やら親戚レベルの葬式だったら理由をはぐらかして行かない。

それ以外に「いますぐ東京に何が何でも行かねば!」とは思いそうにない(大事な葬儀は東京に限りませんが)。まあ腰がすごく重くなっている。少なくとも映画のために東京まで足を運ぶ気にはならない。

かつては僕も昨今の映画事情にもうちょい詳しかった。少なくとも東京の大学を卒業し、東京の会社に勤めてそこを辞め、札幌の大学院に入って数年、30歳前後までは、あれこれ映画を見ていた。そこから何だかすうっと映画から遠ざかった。そのころ最後に熱意を持って見た映画は思い出せる。『フルスタリョフ、車を』で驚愕し、『ポーラX』で悩まされ、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でカンカンになって帰途に就いた。どうやら2000年から2001年ぐらいを境に映画から遠ざかったらしい。

それ以後、僕の中で映画の同時代史が消えた。いまどんな映画をやっているか、どんな映画が評判になっているか、そういう情報に疎くなった。

こうも情報に疎くなったのは、情報の流れがインターネットへと移ってそのインターネットをうまく活用できなかったり活用しようと思わなかったからだと思っていた。実際そうなのだけれど。

それはひとつの解答ではあるけれど、どういう思い出し方をしたのか、もうひとつの、こっちが本当の答えなんじゃないかと気づいた。

自分を作り手として意識することをやめた、これが答えだった。

映画が作りたくて大学で自主制作映画を作り、アニメーション制作会社に入社して「まあ、アニメも映画のうちか」と妥協しながらも映画(アニメ)を作る意志があったし、大学院に入学した頃はビデオカメラが安価になっていたので、かつて8ミリフィルムの厄介さに手痛い目にあっていた身からすると「自主映画を再び、フットワーク軽く作れるな」と思い、実際ビデオカメラを買った。ビデオを編集するために、と思ってその当時けっこういいスペックのパソコンを買った。メジャーとマイナーの振れ幅は大きかったが、映画を作る、という意志はゆるぎなかった。

さてさて作り手たらんとする意志はどうやって消えたんだろうと思い巡らす。

あの頃の周辺を思い出すと、高校の非常勤講師をやって学級崩壊したクラスを建て直したり学年主任と骨肉の争いをしたり、そのストレスで首が曲がる病気にかかって半年間寝たきり生活を送った。

ようやく病気が治って大学院に復帰したら、その間に新たに院に来たひとがアニメ論をやるからと、頼まれてそのひとのゼミ発表に行き仕方なくジブリ作品を数年ぶりに見せられた。そのときアニメの画面の見え方が会社員時代の以前と以後とで全く違っていることに初めて気づいた。これをどう言葉にするか、これが今に至るアニメ論への出発だ。

何が作る意志を消したのだろう。

作り手から論じ手へと、本気でシフトチェンジしたからだろうか。

しかしそれでは説明がつかない。自分の中に渦巻きつづけるいくつかの物語(ストーリー)に、ここ7、8年、どうやって折り合いをつけていたのだろう。

いま僕は小説を書いている。

映画を作るのはもう僕の選択肢にはない。自主制作であっても、あれこれと人材が必要なのだ。その人材を確保するには周囲の人々とコミュニケーションし、し続ける時間が必要だ。

札幌にいた最初の数年間はそれが出来ると思った。けれど後の数年間はそういう思いを抱かなくなってる。何か変化したのだ。

それから松本に帰って「自習」する三年、京都の大学院へ入り直し三年、また松本に帰って家業を手伝い始めてからもう5年になる。

すると十年前後、自分の物語を形にすることに向き合わなかったことになる。

向き合ってない、という感触はその頃なかったが。

37歳くらいに、想像力が衰えてきた、自分が後生大事に抱えてる物語が増殖しなくなった、という記憶はある(いま42歳です)。

京都にいた最後の一年、研究者になるのはもう無理だなと思った頃、自分の物語にもそろそろケリをつけなければと思い、漫画で描くか小説で書くか迷い、ひとまず文房具があれこれ必要な漫画のことも考えて京都のアニメイトへ画材を買いに行ったのは覚えている。

漫画は大学時代、何篇か描いてる。学習参考書のイラストのバイトもしたっけ。映画サークルだけでなく、漫画サークルにも入っていたのです。ちなみに三味線サークルにも入っていて、三味線は楽しかったが師匠が意地悪なひとだった(個人的に僕に対してだけ)。我慢して所属していたのはそのサークルには自主映画の俳優さんとして魅力ある人材が沢山いたからだ。そうでなければ辞めてたと思う。映画のために四年間、意地悪三味線師匠の意地悪三昧に耐えていた。自主映画の人材確保のコストに関する持論はこういう経験も影響している。

漫画の話だった。

結局漫画という選択肢は諦めた。

表現方法の違いやら何やらは無視して、単純に例えば20ページの小説と20ページの漫画を埋めるのにどっちが時間がかかるかと言えば漫画の方だと思う(たったひとりで描く場合)。精神的にどっちが大変か分からないが。

極端でも分かりやすい比喩を使えば、ウサギとカメのどっちが大変かというような話だ。ウサギは速いが跳躍で筋力をかなり使うだろう。でもカメだって全身全霊で歩を進めればそれなりに力を使う。とはいえカメが全力で進んでもウサギの速さにはかなわない。小説が書くに早いとは思わないが、漫画を描く作業(そう作業なのだ)は絶対的に遅い。

漫研の同人誌のために始めた20数ページだかの漫画をひとりで描き終わるのに、夏休みの一ヶ月間、昼夜まるまる使った。最後の一週間は締め切りのために徹夜続きだった。全力で描いてもこれ以上は進まない、という限界を貫いても進まないものは進まない。小説だってそうだろうとも言えるが、調べて考えて文体をこねくりまわした論文なら散々書いてきたので、その経験と照らし合わせると、「終わらなさ」は文章より漫画の方が上だと思う。

戦争と平和』という小説、文庫本で三冊に収まるが、あれを漫画に移植しようとしたら何十巻になるのだろう。逆に『オルフェウスの窓』という漫画、僕はこれを特装版で広辞苑みたいな厚さのやつ三巻本を持っているけれど(四巻だっけ? 何歩か歩いて本棚を探すことすらしないで書く)、この漫画を小説に移植したら文庫本としてどれだけの厚さで何巻に収まるのだろうか。小説と漫画、どっちが偉いとかそういう話ではない。漫画が1ページに費やせる物語の絶対的な遅さのことも言いたいだけだ。一話完結が基本の『美味しんぼ』や『こち亀』みたいなものでなく、筋で読ませる漫画でもコミックで100巻を超えたりする。数十巻なんて、ざらだ。でも文庫本で百巻越す小説なんて、あるかなあ?

アラビアンナイトはあれは一話完結ものだ。あの古典長編叙事詩オデュッセイアとか岩波文庫で一冊に収まってなかったっけ。と、ここでも気軽にブラウザを開いてアマゾンで確認すらしないで書こうとして、試しに「百巻 長編小説」と検索してみたら、あ、そうね、「グイン・サーガ」がありました。栗本薫は意地でやったのかなあ、その辺のことを意識して。よく分からない。でも栗本薫にできるのならスティーヴン・キングにできないはずがない。でもやらない。何故だろう。と書きつつ、さてグイン・サーガを読破する読書の秋に今年はしようかな、と冗談でなく思ったりし始めている。出費が大変だ。市立図書館で十冊ずつ借り直し続けるか。二週間で十冊読む。それを十回繰り返す。14×10=140
140日かかるのか。四ヶ月超。年越せるなあ。

漫画の様々に顕現する遅さだった。

自分の乏しい経験として、十数ページの論文をあれこれ書いてきて、先日三ヶ月かけて原稿用紙100枚の習作小説を書いて試しに文学賞に応募したけれど、でもやっぱり、あの漫画を描いていた夏休みの、日常生活もへったくれもない常に切羽詰まった一ヶ月間とは比較しようがない。

漫画を描いてたアパートは冷房なしで、窓を全開にすると隣の会社の外階段から部屋の中が丸見え。開け放した窓にすだれを垂らして一ヶ月間アパートのその一室のちゃぶ台に座りっきりで昼も夜も漫画を描いていた。

すだれからこちらが透けて見えていたかどうか知らないが、隣りの会社の人が出社し退勤する、階段を昇り下りする足音で「ああ、今日も1日が終ってゆく」と思った。それに比べれば論文であれ小説であれ、悩みながらも日常生活を8割方送れた。

そう言えばアニメーション制作会社時代、あれも絵を描く世界だ(僕は絵を描く立場ではなかったけれど)。二年間かけて一本の、100分から120分のアニメの絵(画面)を作る。この「遅さ」もすごい。ちなみに「もののけ姫」最後の半年間、僕は休日なしだった(他のスタッフは違ったのに・・・)。朝9時半に来て、帰りが夜2時過ぎの半年間だった。この会社はアニメ制作会社には珍しく徹夜労働禁止で、でも、真夜中に自転車で15分のアパートに帰って家事をし風呂に入って寝るのは早くても3時過ぎ。朝は8時半。あ、5時間は寝てるか。昼食、夕食は毎日店屋物。というのも、もうスタジオを離れられない段階に来てるから。連日連夜の油たっぷりな店屋物のおかげで、ここまでの生涯で一番体重が増えた時代。ストレス過剰で頭の中が何が何だか分からない状態になりながら、出来上がったセル画を繰り返し繰り返し見返してチェックミスがないか、究極の「間違い探し」を仕事としてやってたとき、ドワーっと頭の中を色んな経験が押し寄せて今この瞬間に収束していくのを感じ、何かが分かったような感覚に襲われた。「これが労働だ」と思った。そのなにが労働なのか、それを言葉にしたくて大学院へ行ったのだけれど、十年かけても言葉にならなかった。いまも言葉にできない。説明できないでいる。もうあの感覚の記憶が風化した。でも、惰性のように思われようが、あの労働の感覚にこだわり続けている。

会社員のときも、出社して気がつくと夕陽が射しこんできて、窓際のスタッフがブラインドを下ろす。「ああ、今日も1日が終わってしまったんだなあ」と思った。(漫画のときと同じく、作業も仕事もこれからなんだけれど)

漫画にしろアニメにしろ絵を描く作業というのは、日常生活を喰い潰す性質のものだと思う。

労働条件、労働環境をいくら整備しても、この作業・仕事・労働は必ずそれを踏み抜いてしまう。よくよく考えたら、労働の条件やら環境やらといった労働上の福祉って、近代的な考え方だ。けど漫画にしろアニメにしろそれは家内制手工業の時代だ、いまだに。近代的な考え方には馴染まない働き方なんだなあと思う。

車メーカーのフォードから発祥するフォーディズム、つまり流れ作業を労働内容にしながら、でも「ああ野麦峠」みたいなことにはせず、働いている人間にもそれなりの生活を楽しめるよう金銭的な還元・福祉的な保障を配慮する、という近代的な製造業に、アニメや漫画はそもそもなれるのだろうか。

考えられるのはアニメだったら「サザエさん」、漫画だったらさいとう・たかをプロだろう(実際はどうか知らない)。

アニメ「ドラえもん」もそうかも知れない。劇場版ドラえもんを作るとなるとそこのスタッフは「ボーナスの季節が来た」と言うそうだ。やる作業(手間)はいつものテレビと一緒なのに興行収入分、濡れ手に粟的な感じでボーナスが出るんだそうな。確かに一般の会社員も普段と同じ仕事をしているのに定期的にご褒美が出るものな。でもアニメ界だとそれは本当に濡れ手に粟的な「よこしまな収入」のように、少なくとも働いていた制作会社のスタッフたちは愚痴っていた。この会社はフリーランス以外は「スタッフは固定給」という、アニメ界では珍しい部類のことを(旧習ではなく、率先して)やっているのだが、その固定給会社生え抜きのスタッフが、「ドラえもんボーナス」=「余計に働いてないのにご褒美がもらえる」ことに嫌悪感を抱く辺りが面白い。つまりこの業界では一般的な「歩合給」の考え方が、労働倫理として業界的に染み付いてしまうから「特別なことしてないのに、ご褒美」に嫌悪感を抱く。それがいい悪いと言っているのではなくて、労働の業界が違えば労働倫理がこうもその業界趨勢に従っていく。その倫理と自分が属している固定休会社のあり様とが違っていても業界趨勢な倫理を内面化してる、というのが不思議というか面白いと思ったから書いてみた。

このジブリにもボーナスはあった。作品が出来て公開して、儲かったら儲かった分、出来るだけ社員に還元した。企業を構成する社員・労働者に満遍なく利益を還元する、という社風は宮崎駿さん・高畑勲さんが共産主義シンパだからで、強欲資本主義なゴリゴリな搾取みたいなことはしたくない、その「理想」が固定給であり徹夜労働禁止であり興行収入に応じたボーナスなのだ。

しかしどうしたってリーダーに金が集まる。そのリーダーたる宮崎さんは、金を多くを持つことに罪悪を感じていた。あれ、何だったかなあ、ブラウザ開いてちょこちょこっと検索語入れれば分かるんだろうけど、それすら面倒臭い。いい加減な記憶で書いてます、の前時代なものの書きようのまま、そのまま書いていくと、3億円をトトロの森に寄付したとかあったじゃないですか。「もののけ姫」制作中だったか、制作終ってからか記憶にないんですが、その三億円の出どころも税金対策が理由だったかよく覚えていない。なんか宮崎さんが「国に持ってかれるなら、トトロの森だかなんだか知らんが、森がせいぜい長生きするならそっちに金を回す」だか何だか言っていた記憶がぼんやりある。何にしろ三億円(事件じゃないですなあ。妙な符合にギクッとした)を個人で動かせる人物になってる。そんな自分が歯がゆいと思っている。

なんでこのエピソードを出したかと言うと、トトロの森に三億円寄付したのは報道されたはずだ。僕もまず、報道されたとスタッフから聞かされて知った口だ。この話には・金にまつわるこの話には、数人のスタッフしか覚えていない余話がくっついている。それを言っておこうと思ったのでこの話を出した。

いかんせんその金のからくりの詳細を覚えていない。確かに覚えているのは、「税金払ってきた」と言ってスタジオに帰ってきた宮崎さん。ぼんやりした記憶に辻褄を合わせれば、三億円寄付しても払うべき税金はまだある、まあ当たり前な話。で、「これっぽっちしか残らなかったよ」とぺらぺらな封筒をスタッフの前でかざす。どういう払い方・手続きの仕方をしたら、手許に残りの金が封筒に入って握りしめられている、そういう風になるのかよく分からない。現金納付したということなのだろうけど、「持ってかれた」金額を想像すると、「現金で移動するのはヤバイんじゃないの?」と思うのだが、その詳細はのちのち誰かが別の形で正確な形で思い出話してくれることを期待。

白い普通の封筒から出してみせた金は、三万円と小銭がちょっと。

で宮崎さんが、「もう、これしか残ったって、どうなるっていうんだ。おい、お前ら(と目の前の数人のスタッフに・僕も含みます)今晩鮨おごってやる、この金で」。

このエピソードは色々なことが見えてくる。あの人の金に対する潔癖さ。それをパフォーマンスとしてスタッフに誇示したい欲望。でもそのパフォーマンスも照れを含んだ「スタッフをねぎらいたい」という気持ちであるのも分かってるスタッフ。

肝心の鮨を食べた記憶がまったくないんですけどね。食べに行ったのは確かなんだけど。

そう言えばジブリのスタッフで鮨を食いに行った記憶がもうひとつある。「となりの山田くん」のときだ。

まだ作画など実際的な作業が始まる前。高畑さんがいつものように(というか、その様を現実で見るのは初めてだったが)渡された企画が好きになれなくて、「どうしたら好きになれるか、どうしたらこれを映画にする価値があると思えるか」そういうことをツラツラ(ダラダラ)考え続けてる高畑さんに、ただ成す術もなくその場でただ時間をつきあい続けるスタッフ。噂で聞いていたとおりだが、これは自分の身に降りかかるとけっこうつらい。「大丈夫か、映画として実現するのか、これ。企画スタートからもう半年過ぎてる。あと一年半しかない。なのに何も決まってない。ここでいまさらポッシャったら、この会社どうやってくんだろう」。

企画段階から携わる数名のメインスタッフだけが制作現場の一角を陣取って、ボンヤリしてる高畑さんをただ見守っている。傍から見たらグダグダな雰囲気だ。周りのスタッフは外注の仕事をやっていて、なにはともあれ「労働している」。こっちは本丸なのに、このいたたまれなさは何だ。メインスタッフはみな一様に表情が思わしくない。すると高畑さんが机の上に乗っけた小さなテレビの画面から目を離してこちらメインスタッフに振り返り、「がんばれタブチくん、つまらないですねー」とニヤニヤして話しかける。いつになったらいしいひさいちを肯定できるんだ! まだタブチくんかよ! 企画が動くのはまだまだ先だなあ、ああ大丈夫かなあ、この企画。

企画から実作業へと移る間の一年間、企画準備と言われるこの期間(というか制作期間の半分を準備についやすな)。この企画準備の期間は、でも、「もののけ姫」の修羅場とはまた別の、体験できていることの醍醐味があった。「解放区」とはこういうやつだと思う。焦って必死だったとは言え、アイデアは何でも言えた。その吟味は二三日みんなで考え、というか発酵させ、最終的に高畑さんのジャッジが下る。しかし何でも言えた。何でもやれた。高畑さんがやらせようとしたりした。勤めて一年のペーペーの演出助手の僕に「山田くん」の絵コンテの一部を切らせようとした。びびって固辞したが、あれやってみたらどうなっていたかな。しかし一年生助手に本編の絵コンテって。試してるのかマジなのか分からなかった。自由過ぎて怖い。

高畑さんが企画を考えるのに気乗りしないから出社時間がいつも昼過ぎまで遅刻。結局来ない日もある。やることのない僕は業を煮やして自由な行動に出た。出勤してタイムカードを押し、下っ端演出助手の仕事のひとつ社内の清掃をして、10時の皆さんの出勤を待つ。そろそろスタッフさん出揃ったかなと思った頃に、会社を出て、自転車で数分のところにある区民図書館に行き、昼過ぎまで読書する。さすがに二週間続けていたら制作デスクに注意を受けた。外出して何している、と問われて、あそこの図書館で本読んでました、と(あまり悪いような気がしないで)答えると、デスクは苦渋の顔で「うん、まあさすがに長時間席を外すのはまずいから、会社にはいてくれ」。(高畑さんがあれだからなあ、やること何も、ないもんなあ。お前さんがそうしたい気持ちよく分かるんだけど、ここは立場上こう言うしかないんだよ)、もうお互い気質を知り合ってる同士。「分かりました。気をつけます」。

まあそんなズルいことを以てして「何でもやれた」ということではありません。デスクがどこへ向けて渋い顔していいか分からない状況というのは、一番自由過ぎるのが船頭の高畑さんで、「この人にまた社の存亡をかけるのか」というデスクの渋い顔でもあったりする(デスクさんは勤続十数年の猛者)。そんなシチュエーションを振り返ると「なんちゅう面白い時間を過ごせたんだ」と思う。

宮崎さんのこと、「もののけ姫」のことばかり聞かれる。

でも面白さは高畑さんも、「山田くん」も半端ではない。

自由すぎて怖さすら覚える高畑さんのほうが演出家として破天荒だと思うし、「山田くん」は見た目の地味さとは裏腹な前代未聞なデジダル技術の使い方を「発明」したり、あれこれとにかく、ハラハラドキドキさせられながら最後にはアッと驚かせる回答を結果として出した。

アニメ好きの人には申し訳ないが、高畑さんの作品のすごさは制作過程に実際付き合わないと分からない。僕も観客だった頃は、作品が公開されて、スタッフのインタビューが出て、「こんなすごい新しいことをやってのけた」と高畑さんを絶賛するので、実際映画で確認していた。「そんなすごいことかなあ」と。「想い出ぽろぽろ」の、若い女性キャラが笑った時に頬に刻まれる皺とか。

観客の立場では、「その作品で創造・発見されたこと」は「後追いの確認」でしかない。制作に、特に企画準備から携わったスタッフは、発見・創造のプロセスに立ち会う。高畑さん自身が見えていない問いを立て、周りはどうなるんだろうと焦りながらアイデアを必死に投げかける。一向に見えない解に高畑さんが手探りで何かを試してみようとモゴモゴと要領を得ない指示をスタッフに出す。ダメだったりする。何だかよく分からないままスタッフは言われるままにあれこれやり続ける。そして、どの瞬間見えるのだろう、その回答が。

僕の場合、最初のテストカットがスタッフルームで上映されたとき。セルの色付け、背景も描いて撮影し、フィルムになる。それはあくまでテストだ。これが使えるかどうかなど分からない。けどスクリーンに映し出されたものを見た瞬間、「ああ、そういうことだったのか」と一気に思い知らされる。一年間かけて一カット。しかもテストカット。公開までにあと一年と三ヶ月。1カット。テストカット。

でも高畑さんには分かっていたのだと思う。確信できたから最後の工程までかけてフィルムとして全スタッフに見せたのだと思う。これはテストカットではない。この映画の、最初に出来た、完成した1カットなのだと。実際このテストカットは本編に使われた。

後付けな理屈でいま言うのではなく、一年間グダグダわけのわからない問いを自問自答していた高畑さんの理由が、最後の最後に、つまりフィルムとして出来上がるまで想像ができず、でも見せられたら「ああ、そういうことだったのか」。

話が抽象的すぎる。またいつか追い追い書いてみたい。ひとつだけ言うと、「水彩画でアニメ作れませんかねえ。セルアニメで。デジタルも導入したことだし、これも何か使えませんかねえ」。水彩画なセルアニメをデジタルで。いまなら皆さん、すぐ想像がつくと思いますが、あの当時、「いったい何言ってんだ、このオッサン」と誰しも思ったことだろう。あれから十数年、誰も見たことのなかったセルアニメをいまあちこちで見ることが出来る。

どの分野でも「パイオニア」という存在はいる。そのひとりが未聞の地平をさらに新たに開拓していく様を傍で見れたこと、パイオニアとはこういうことをするのだと知ることができたこと。知るというより、体験できたこと。それが、もしかしたらジブリにいた一番大切にしたい記憶なのかも知れない。

十数年ぶりの高畑さんの新作「かぐや姫」(そんなにブランク空いたのは「山田くん」がコケて干されたからなんですけどね)。年齢からいって、これが最後の長編だろう。制作が間に合わなかったほどの作品、ああ、「かぐや姫」に関わったスタッフ、いいなあ。オレも参加したかった!(スタッフの心労はすごかったろうけど)

ああ、鮨の話でした。

まだグダグダな状態のとき、メインスタッフで鮨食いに行きました。宮崎さんのときはカウンター越しに鮨握ってくれるお寿司屋でしたが、このときは鮨食べ放題の店。お店に行くと二階に案内されて、そこは襖をとっぱらった一面の座敷で、座敷の階段脇に鮨のそれぞれの種類が桶ごとにずらっと並んでる。それを大きな皿で盛りつけて、立食ならぬ座食形式でテーブルに就いて喰う。

宮崎さんがおごってくれた鮨屋はまったく記憶にないのに、高畑さんがおごってくれた食い放題鮨の方がくっきり覚えている。でも書いてみて辛うじて、宮崎さんのときはカウンター越しで鮨握ってくれる店だったことは思い出せた。小上がりの四人座りの席だったことも思い出した。でもそんなことを思い出してどうする。

そんなことを言ったら高畑さんと行った鮨の想い出も思い出したところで何になる。

そうそう、グダグダに煮詰まった状況なので「ここは解放的に、パーッと鮨でも食いに行きますか」とグダグダにしている張本人がニコニコしながら提案したのを思い出した。そのときにしたあの人のジェスチャーも再現できる。そのジェスチャーがあまりに印象的に頻繁にされるので、僕のジェスチャーのひとつにもいまなってしまっているのですが。寅さんみたいなと称される風貌で馬鹿みたいにアッケラカンとした表情とジェスチャーで「ここはパーッと行きますか」。「責任ちゅうもん、感じとるのか」と、それまでも何度も思ったことを、また思ったりする。けれど案外これは作品準備と関係がなくもない。「山田くん」の4コマ漫画の定番ネタのひとつに、家庭内の雰囲気が険悪になったり煮詰まったりすると、おばあちゃんかお母さんが「ほな、お寿司とりましょ」と受話器を取り上げ、お父さんが怒りをこらえて「関係あるか」。

とこのエピソードを書いただけでいま爆笑している。寄席のベテラン芸人さんのような、どうなるか分かっているんだけど、また同じくだりで笑ってしまう、あれ。十数年ぶりに思い出していまだ爆笑してしまう。四コマ漫画となりの山田くん」のノリに、今でもすぐに、それほどシンクロできてしまう。企画準備のとき、世界で一番「となりの山田くん」に知悉しているのはオレだ、という自負があった(しょーもない自負、とその当時も思ってた)。作者いしいひさいちよりも、他の作品はさておき「山田くん」に関する知識なら、勝てる自信があった。

何しろあんまりすることがないので、でも外出も出来ないので、暇つぶし気分で「山田くん」の内容全部、その当時連載された分すべて、データベースにして、最初富士通ワープロで、途中から「このデータベース使える」とスタッフに認知されてからは白黒ディスプレイのマッキントッシュで、打ち込み続けた。僕の「データベース癖」はここから始まる。

でも「山田くんデータベース計画」の話はあちこちでしている。もっと、いままで話したことのないような、自分でも忘れていた「山田くんの頃」をおいおい書いてみたい。

(あ、寿司食いに行くのに食べ放題を提案したのが作画監督田辺修さんだった。田辺さん! いいひとだったなあ。あのひとのことを思い出すたび、ほんわかしてしまう。ジブリにいて映画や音楽の趣味が恐ろしく同調できたのはあのひとだけだった。ウォークマン裏ワザでフリッパーズギターの曲を小沢健二メインボーカルにしたりして盛り上がった。アニメで北野武調はいかがか否かで議論したり。そして同じく作画監督の小西さん! 田辺さんをこの作品のために外部から引っ張って来たのが小西さんだった。穏やかなキャラクターなのに、電車に乗って席に座ると膝をガバっと開いた不良な座りして二人分の席を占領しているのに本人は無自覚だったり。ジブリ生え抜きの小西さんはこの後フリーになり、「ドラえもんのび太の恐竜」の作画監督になり、「山田くん」キャラ描線を完全再現した。ここまでキャラをイタズラ描きみたいに崩したらジャイアンだと認識できないよ!と突っ込んだりしながら、「山田くん」のDNAがここに継承されていると、映画館で観ながら泣きそうになった。なんて、あれこれあれこれ)

僕が、でも「山田くん」のエンドクレジットに現れないのは、さっきのテストカットを見終えてから間もなく会社を辞めたから。

というか、そのテストカットを見終えた瞬間、「あ、この作品で僕がいる意味がなくなったな」と悟った。「あとは実際的な作業が始まる。それはベテランさんの演出助手がいればもう十分だ。」それ以前から辞める気でいたけれど、そう思うに至った理由は長々と説明しないといけないから今回は流して、でもまあ、テストカットを見たときが辞めるのを決意するとてもいいタイミングだと思った。「跳ねっ返りはもういらない。あとは実務が勝負です」。さてさてジブリにいちゃあ演出家になれそうにない。その重責に耐えるには長い年月が必要だろうからというのもある。だから他所のスタジオに行って、手っ取り早くテレビアニメで演出家デビューしてあれこれ試行錯誤した方がよかろう。それに。ジブリは若手を育成する土壌ではない。本当に、芽を摘む空間だ。芽もないままに年古った魑魅魍魎が、必死で芽が出るものを摘もうとする。そうじゃない人も沢山いたけど、陰湿なもの、いじめ的なものはここでも、姑息にひっそりと見えない形で技を発揮させる。そんな技だけ芽が出てる。そういう人たちほどスタジオに居座り、土壌がさらに腐っていく。

若い芽を摘む腐った土壌の象徴的なケースが「ハウル監督降板劇」だ。2ちゃんねるにまだあのログが残っているんだろうな。あのスレッドを見ていたのは僕が首が曲がって闘病中の時だから、2002年の夏あたりだろう。曲がり切っても曲がろうと筋肉がする痛みに耐えて、何とかパソコンのモニタに首をねじまげようとしながら、あのスレッドのその推移をじっと見守り続けた。でも、あそこに書かれていること全部嘘だぜ(岡村靖幸)。あの件をめぐっても、噂の真相的な怪情報がまことにしやかに、2ちゃんねるの片隅であの頃、行き交っていた。実情はどうもあそこに書かれていることの正反対だったらしいのが僕が教えてもらった情報ソース。なんで噂レベルになると、真逆になったのか、ちょっと不思議だ。

何にしろ、ジブリという不思議な時代を生きてきた者のひとりとして、いつか「ハウル監督降板劇」のドキュメントが残されて欲しい。これは僕の任ではないと思う。僕にはちょっと荷が重い。ただ、ジブリの負の側面があの事件に集約されていると、現場にひとときいた自分は直観している。真相がどのように分が悪く明らかになるか、そこまでは僕も当時の現場事情を知らない。

それにしても今になっても「ハウルの動く城」の監督交代劇(秘密裡になされた)にこだわってる人って、どれだけいるんだろう。病気しながらスレッド必死に見てた(首をねじまげ直すのに必死)のを思い出して、その年代に気付き、ああもう十年経っているんだ、と驚いている。もう歴史は、アニメの歴史は動いてしまっている。細田守本人が自力でアニメの歴史を動かしてしまった。だから、もうハウルを監督しなかったのどうのと言ったとて、もうどうでもいいじゃないか。なんて全然思えない。ここでまた、これって結局我執なのかなあ、ひとり相撲なのかなあ、と思ったりする。でもこの確信を突き崩す決定的な情報なり、見方なりが提示されたら、あっさりと杞憂だったと認めますが。なにを杞憂しているのかって。ジブリな不思議な時代が、それが崩れるとともに何もかもなかったのように記憶が風化する、そのことに。

一体どの辺で、どっぷりアニメ話、ジブリ話を書きつのっているいまここの自分になったのか。どうもまた労働が話題になってきた辺りからズルズルと筋が逸れていってるようだ。

物語の作り手として意識しながらそのフィクションと表現媒体に関わらないとやる気が出ない、そういう話から始まったように思う。「やる気が出ない」、なんて表現を使いだしてること自体、この話題、この筋を書き続ける気が今日は失せている。

自分にとって戯言・脱線のような記述の方が、読んでいる人には情報的価値があるような文章になっている。本筋のほうがつまらない文章。本人も本筋に興味がなくなっているので、このまま進めてみよう。

おさらい。映画もアニメも漫画も、作り手たらんとする手段としてはもう棄てた。作り手たらんとする手段の眼中から外れると、一気に疎遠になる性情らしい。ボランティアも、それに参加することで辛うじて映画というものを意識の隅にとどめようとしているだけかも知れない。現に自分がいかに映画に疎くなったのか自覚できる場所になっている。それって何の役に立つの、と問われても仕方がない自己確認だが。

アニメもほとんど見る気になれず実際見ていないが、論を書かねばという使命が辛うじてアニメを意識させる。他にも通り魔的に「ジブリなイシゾネですか?」攻撃があって宿命のように変な角度にだけ意識する、させられる。しかしアニメをほぼ見ていない人が書くアニメ論って信用が出来るのか、という実に真っ当な疑問も、誰に問われるまでもなく、自分が首を傾げている。

たまに紙媒体でアニメの論を読むが、論を志した十年前とあまり変わってるような気がしない。僕が考えてることを言語化したものはないような気がする。アニメ業界で働いているひと、特にアニメーターは多少の差はあれ皆、「血肉化」して持っている考えに過ぎないのだけれど、アニメーター自身はそれをうまく言葉(共通語)にできていない。ようやく『アニメ・マシーン』が出版されたけど、知的特権階級を自認している人たちの独占的言語レベルで終わりそうな見当だ、とあの本の体裁を見て思った。

声が遠く広く伝わるか保証は何もないけれど、ジブリの新作だけは家族と一緒に劇場に足を運ぶ、そういうとても広い層に使い回してもらえる言葉に僕はしたい。

言葉を使いまわすとはつまり、その言葉を使ってアニメを違う見方で見てしまうことだ。知的エリートな言い回しを使えば、セルアニメーションにおける認識論的転回を起こしたいということ。そういう小難しい言葉を使わず、日常用語で何とか説明したい。なんかアニメ論客の橋本治、みたいな存在になりたいような趣旨の発言だ。

あの人も世情の知識には普段全然疎いのに、一を聞き知ると十を言い当てる名人なところがすごい。その発想のベースは高校の世界史の教科書で、でもその教科書をすごく丁寧に読んで覚えていて、それをお題に合わせて飽くことなく繰り返す。そうやって半世紀近く著述業を生き抜いてきた。

コア(核)は世界史教科書から引いてきた知識のマンネリなのだけど、世情があちこち・話題は多岐にわたって、橋本さんに振り撒かれてくるので、著述の見た目の多彩さは世情の移り気が勝手に行なってくれる。逆に言えば、多様化した社会、激動転変する世界とか言われているけど、半世紀前の世界史教科書に載っていることで相変わらず説明できちゃうんだよ、そんなに大して世界は変わってませんよ、と橋本さんは言い続けてるようなものだ。

そしてその文章は全然難しい言葉を使っていない。でも一読して何か呑み込めない感じがある。日常語を使いながら、けっこうややこしい理屈を展開しているのだ。アニメ論客界(そんなものあればの話だが)のそんな橋本治になる。

たった二年間のジブリでの経験からそのままアニメもろくに見ずにたまに見たアニメは「ああ、こういうのね」と言える。同じこと言い続けて、でも誰も何故か真似できない。聞いて納得はできる。そんな人になれたらすごいなあ。野望は高くていい。そうならないだろうとは分かっているが、背伸びしてみる。中年でも背伸びしてみるのだ。

しかし誰も真似できない理屈では困る。言葉遣いを真似はできなくても、発想は伝達できて欲しい。橋本さんも伝達がなかなか成功しないから、延々と同じこと言ってるのだろうけど。

アニメを別様に見る。見え方が変わる。これは何度も書いてきたことだ。この箇所だけ読むと霊感商法のキャッチフレーズみたいだ。

何が変わるか(大道商人みたいだ)。画面の見え方が変わる。(寅さん風に読んでみてください)

というか、今までのアニメ論(アニメの見方)は、画面そのものを無視してきた。画面に映っていない筋やらテーマやらを語ってばかりだ。見えもしないものを見たかのように語る前に、まず映ってる画面そのものを見ましょう。そういう話。

これは映画の論に詳しい人なら、蓮實重彦という映画評論家が半世紀に渉って主張してきたことだ。スクリーンという表面に映っているものをまず見ましょう。見えもしない筋やらテーマやら心理やらを見たかのように思い、見えている画面を見ないようにしている、そういうヘンテコな映画の接し方はもうやめましょう、そういう話。

ただ蓮實重彦さんはアニメに関しては詳しくなかった。あるいは自分の主張する実写映画の画面の見方が、アニメにはうまく使えなかった。その追随者の何人かはアニメに挑戦したけれど、実写映画の見方をアニメに当てはめただけだった。それで何か達成したと思っていた。

アニメに論というもので意識して接するようになって十年、色々読んだけど、唯一これはいい線行ってるんじゃないか(僭越ですが)と思ったのは、「ユリイカ」という雑誌の「もののけ姫特集号」で座談している高橋洋さんと塩田明彦さんの発言。ここから色んなヒントを僕はもらっている。アニメの見方を即変えてみたいと思う人は必読です。近所の図書館に行って書庫から借り出して来ましょう。

ついでにもうひとつ必読書(と言っていいのかな)。

アニメ一般に対して「なんか気持ち悪いんだよね」と思う人。または「オタクってアニメに何をそんなに熱中しているのかなあ」と不思議に思ってる人。

そういう人には、「アニメ夜話」という本の「ガンダム特集号」、その座談を読めばよく分かります。「ああ、こういう風に熱中してこんなことをしゃべっているのね」とか「ああ、こういうこと真剣に考えたり信じているから気持ち悪いんだ」とかいうことが、小一時間でざっと読めて、オタクの心のあり様、熱中の様がライブ感として体験できます。

僕も以前から不思議に思って、だからその生き様が腑に落ちなく思っていましたが、どうしてか理由が自分でも分からなかった。宮崎勤事件やオウム事件といった犯罪を契機に起きたオタク分析やオタク自身の自己省察自己批判をあれこれ読んでもやはり腑に落ちなかった。

大学院時代にオタクでもある院生とは多く接してきた。オタク方面は趣味な人もいれば、オタクの道を研究のレールに敷こうとしていた人もいた。でもどちらにせよ皆、普段「一般人」には自分の趣味嗜好を警戒的に慎重に、知的であろうと説明するので、何か言い訳っぽいなという疑念が拭えなかった。

そしたらこの本に出会えた。ガンダムオタクの人たちが無邪気に無防備にガンダムのことを熱く語っています。筋やらテーマやら心理の機微やらキャラ萌えやらあれこれ。ああ、こういうことね、と永年の疑問が体感として氷解した。これはうまく説明できない。でも説明できないでいい。自分のアニメ論にはこれは関係ない、そういうことが分かっただけで十分。

ガンダムを見ても、ああいうことを喋りたいとは一切思わなかった自分を、十数年越しに発見した。

声やら音やらが響いているだけの固まっている画面に、僕の方も意識が固まってしまった。そういうアニメだった。そしてそんな風に思ってガンダムを見てる級友がひとりもいなくて、意識が凍りつくしかないあの画面によって、何でこんなに興奮しているのか、疎外感を感じた。あの頃の自分よ、案外見当はずれじゃなかったよ、と声を掛けてあげたい。

でも憎まれ口はおいといて、自分には関係ない見方をわざわざ詳細に分析してバッサリ念を入れて斬る必要はあまり感じない。自分が肯定的に思える見方をくっきり浮き彫りにしていけば、ネガとしてそれは僕にも相手(聞き手・読み手)にも説明できるように自然となっていく、と思っている。

とはいえアニメ論客たらんとする個人的な道程から照らしてみると、この一冊の出会いは大きかった。これを読んでからは、書店に並んでいる新しいアニメ評論本、アニメ雑誌を見つけると、立ち読み状態でページぱらぱらとめくっていって、その語彙のところどころの配列で「あ、これは僕には関係ない本だ」というのがすぐ分かるようになった。研究出費もかなり抑えられた。

それほど、この本(というか冊子)は、オタクのコアな熱意が最大瞬間風速的に自分の身体を突き抜けたのを感じ取れた。その感じがいいと思うかどう思うかは読む人次第なだけで、でも自分の知らない世界をその本を読んでいる間だけ生きることが出来る、そういう本はやはりいい本なのではなかろうか。

どういう筋道を辿ったら話がこんな風なところに行くのか。

今回はあえてつまらなく書く、つまらなかろうと書きたいことを書く、相手が辟易するならばそこで読むのをやめてもらえばいい、ただしなるべく不快な物言いは避けよう、そういう基準で今回は書き始めた。

気付くと、今までになく情報量豊富だ。

相変わらず外堀を埋める感ではあるが、僕が考えているアニメ論の具体像がいままでになく書けもした。

自分がいまも作り手たらんとする意志は残っていた、とか何とか、そういう話は今回の流れ任せではただの誘い水な役割にしか過ぎなかったようだ。

今回でこの続きもの、十回目です。改めて自分で通読した。失言・暴言の数々に冷や汗かくことしきり。

しかしもっと根本的にアレ?、と我ながら矛盾していると思ったのが、けっこう宮崎アニメの筋やらテーマやら心理やらに難癖つけていることだ。自分のアニメ論はそういうことに一切関知しない、と言っておきながら。

あれれー、と思って、これを書きながら考えていた。

答えは分かってみれば簡単。

アニメを筋やらテーマやら心理やらで語ることを、公の場では一切するつもりがない、ということ。そういうのは、色んなひとがやってるので、わざわざ僕が声を出す必要はない。そんなことに労力を費やすより、まだ一般的でない画面そのものを見るアニメの見方を、説明としていいものにすることに力を注ぎたい。

この続き物で書いたりしている宮崎アニメの筋やらテーマやら心理やらへのイチャモンは、ただの雑談。もしくは暴露話。そんなことでしかないことを公の場でしたくはないのです。

でも考えてはいるのです。筋やらテーマやら心理やらに。普通に。実際ここでこうやって色々書いている。でも、これって、僕のしているその手の話って、僕がジブリにいたことに基づいて少しニュアンスが違って読めてしまうだけであって、僕がジブリにいたことが嘘だったということにして読んだら、ただの雑談です。あとは法螺話。「ジブリにいた」ことで担保される発言の輝きこそ、こちらこそまっぴら御免。そういう話は、でも現実的にはしてます。でもそれは親しい人とくだけた感じでしゃべりたいだけ。

え? ぼくは/わたしは石曽根と「親しい」の?、フェイスブックのぼくの/わたしのウォールって「くだけた感じ」になっているのかしらん?

これからそうしていきましょうよ、とそういう話であり、僕なりの下手くそなやり方です。

とまあ、そう企んだわけでは決してないのですが、最後にやっぱりフェイスブックにひとことチクリ。というか、いま目の前にしているその「画面そのもの」を意識させようとしている点で、アニメ論もインターネット批判も、僕がやっていることは同じことだったんですな。何となく読めたり見えたり聞こえたりするものを「縁取っている」枠=フレームそのものの物質性にちょっと敏感で生きていきましょう、そういう話で毎度毎度のお退屈様で御座いました。

(ほんとうに毎回読んでくださってすみませんと思ってるんですが、雑談はこういう風にしか終わらせられないようです、憎まれ口ひとつ世を放つ)

gと烙印【その2~語り直し/長文のまま読みたいひと向け】

  さて今回始まるこの文章は、もう十数年前、2000年代前半ころに書いて、大学院の仲間たちに読んでもらい、その反応を探るのが目的だった文章の掘り起こしです。
 だからいわば、もうひとつの「gと烙印」の始まり、になるはずだった文章です。
 「なるはずだった」とは、この文章を書いてしばらくして(この文章が原因ではないのですが)在籍していた大学院の研究室から実質上追放されて、すごいトラブル(このこともいつか小説にしたいくらいのドラマ)に巻き込まれて、この文章の存在や続きなんか、脳内からぶっとんでしまったのでした。
 前回の書き出しとはずいぶん文章の調子が違うと思います。
 比較の意味合いも兼ねつつ読んでいただけたら面白いかもしれません。こういった口調でしかジブリのことが書けないときが石曽根にもあったという、ドキュメントな面白さもあるし、あるいは、あの段階でなければ出てこなかったユニークかつ端的な表現も読めるでしょう。
 語り直しという変則的な始まりも、まさに始まりだからこそ起こり得る、新たな/別の「gと烙印」の可能性(いまや後戻りできない不可能性)として、うまくはまらないパズルのピースのようなもどかしさを感じながら、読んでいただければうれしいです。

《「G」の烙印(a)~語り難い物語》
 自省的ないしナルシスティックと言われようともかまわない。
 ぼくの生きた行程を、ひとつの未完の物語のようにして考えを巡らすようになったのは、いつからか。
 それはずいぶん昔からのことのように思いこんでいたが、いまあらためて振り返ってみると、それはぼくの人生が、物語として語るには不可能になったまさにその瞬間から始まったことに気づき、キーボードを打つ手も止まり、呆然とする。
 それはつまり、言い方を変えれば、こういうことだ。
 もはや物語の形で記述することが不可能になった段階になってはじめて、ぼくは己の人生を物語として見ようとする欲望に目覚めたのではないか。
 しかしその気づきの瞬間からだいぶ時間が経った。
 おかげでこうやって冷静に、あのときの自分を振り返り得るのだ。あの瞬間ぼくは、生の新たな局面が現れた/あるいは物語にふさわしいときが到来したのだとなかば狂喜していた。そう、一編の異様な小説が立ち上がりつつあるのだと。
 その瞬間の感触は、その瞬間からたちまち時間が過ぎてゆくにつれて必然的に起こるであろう経験の摩耗を経て変化していった。
 読者の理解を得るべく再度言い方を変えると、実際あのときぼくは、自分の人生ではじめて一編の小説にふさわしい材料が眼前に顕現したのだと思っていた。しかしその局面の貴重さに気づかぬまま、そのときどきの対処すべき些事に処理を優先していた結果、あの瞬間を想起しても、もはや記述し得ないものになっていたことにある日気づいたのだ。そう形容し直してみるとやや正確かもしれない。

 あまりに抽象的な物言いが続いている。
 ここでいま集中的に考察しているのは、ジブリというアニメスタジオに身を置いた二年あまりの経験を、瞬間的に/凝縮していく極小のイメージへと圧縮しようとする試みの、その前提/前哨戦であることを言っている。そう書けばいささか読む者にも助けになるだろうか。

《しかし、あの経験は果たして記述可能か不可能なのか?》

 もちろんあの頃スタジオにいた体験を小説化するというプランは、いまだに「あり」だと思っている。それはつまり、あの体験が小説という形を借りれば「ある側面では」記述するのは可能だと思うのだ。
 にも関わらず、あの体験をどう記述していいかわからない、というのも正直な思いなのだ。
 それは記述可能か不可能か。あるいはそういう問いの立て方そのものが、ぼくのケースの場合、間違っているのではないか。
 むしろこういう風に説明したらどうだろう。
 あのころ「渦中にいた」経験を「全面的に」記述できると、当時のぼくは思っていた。しかしこの体験が、その後の「渦中ではなくなって」別の位相の経験を重ねていった結果、「あの体験」は別の彩りへと変わっていった。だからいまや「この彩り」でしか見えない「あの体験」を、「あの彩り」のままに追体験することが不可能になった結果が「もはや記述が出来ないことになってしまった」そういう事態が起きたのではなかろうか。
(もちろん、この「現在の・別の彩り」は「当時の・あの彩り」のただなかにあっても、潜在的に/身をひそめるように、あの当時のぼくの眼の届かないところに浸食を始めていたのだろう。あるいはそれが目をよぎっていく瞬間もあったと思うし、そのときぼくは渦中にあって、一瞬よぎった「そいつ」を見くびっていた節がある。)

 いったいこの抽象的な物言いは何だ?と思われるかも知れない。本題はいつ始まるのだ。
 そういう声が聞こえそうである。
 その非難に対してはこう答えよう。
 たしかに一見迂遠にも見える行程(物言い)だが、このような迂回を経てこそ初めて見えてくる景色があるはずなのではないか。もちろんもっと直線的に進む近道があるのは、ぼくも知っている。多くの者、もっと言ってしまえばほとんどの者が選ぶであろうその近道/ショートカットを介して話し始めれば、多くの読者にはするすると理解が可能だ。そしてともすればその話の多くはすでに知っている話だったりする。
 例え話をいれよう。
 ジブリというスタジオ空間のなかは、一般人のほとんどは立ち入れない。しかしスタジオの中がどうなっているかは、多くのひとが知っているのではないだろうか。実際宮崎駿が新しい作品を作るたびに、ドキュメンタリーをつくるためテレビスタッフが入っている。だからひとびとはスタジオに入れなくとも、その内部をイメージとして知っている。「直線的な近道/ショートカット」とはこのことだ。お互いの共通理解に沿っておおざっぱでイージーな語り方を採用すること。
 しかし一方で、誰とも比較できない独自の獣道をたどってはじめて目撃した「スタジオの景色」を読者の前に立ち上げるには、時間をかけて/忍耐づよく、スタジオとぼくとが触れ合ったあの地点/瞬間へと遠く遠く遡らないと見えてこない光景なのだ。

 しかもこの迂回を経てさえも、ぼくが当時体験したあの風景の/あのアングルをそのまま簡単に/再びたどれるわけでないことはわかっている。
 あの瞬間/あの当時を書きつづることの「語りがたさ」が多少は伝わっただろうか。
 それに対しあなたはこう言うかもしれない。
 「構想」だろうが「小説」だろうが、もったいぶってどうなる?オレが興味があるのはもっとわかりやすく「あのこと」を知りたいだけだ。これから始まり、読み取られるのはジブリのスキャンダル?そうかも知れない。そうにしか読めないひとは確かにいるだろう。
 しかしそうでなく、誠実にぼくの体験を追おうとするひともいるだろう。そうであってもこの物言いは何を読まされているのかわからない、そういう感想は多いだろう。
 だから以下に続く文章でぼくは、わざとずばりとテーマに切り込んで語ってみようと思う。
 
 ぼくはジブリで働いていた。
 日本で知らぬ者がいないと言っても大げさでない、日本の創造性を代表するような、あのアニメスタジオでぼくは働いていた。
 そしてそのスタジオに住まう、この人物もまた日本で知らぬ者がほとんどいないような宮崎駿がぼくを目の前にして言ったのだ。
「お前には才能がある。だからジブリに入るんだ」
 そう言われたのでぼくはジブリで働くことになったのだ。

 こうわかりやすく書き始めることは、逆にぼくには枷となって後々までその「不自由さ」に呪縛されることになるだろうと予感している。
 この書き方は誤解を生み、その誤解を解くようぼくはあわてて道草のように道の各地点に座り込み誤解の雑草を抜いていく。それでもショートカットを進めば進むほど、通り過ぎた背後に誤解の雑草たちがざわざわと音を立てて生え揃っていくのだ。
 それでもこの誤解の雑草を茂らせてみるように、あえてこの直線的に貫く「わたしのジブリの履歴」を語りつづけてみよう。
 そうするのも、下世話に興味本位で読み始めたひとに「あらすじ」を提示して「こんなの、これが最後ですからね」と告げて、そのひとに立ち去ってもらうためだったりする。
 そのためには幾分傲慢とも目立ちたがりとも誤解されようが、ひとわたり書いてしまおうと思う。実際この25年間、ジブリのイシゾネに興味本位で接近したひとびとのほとんどが、以下に記す事情も知らぬままに興味を満たして去ってしまったのだし。(この項、おわり)
 

gと烙印:第1回~焼きごてのような思い出【オリジナル長文バージョンで】

 さて今度こそは、ぼくとジブリの話です。
 どこから話を始めたらいいのかわからないのです。ふたを空けて少しでも脳をにゅっと押すと、ジブリ専用の脳内から言葉にならないイメージがきれぎれのまま飛び交って、順番などおかまいなしに出口を目指してあふれそうになり、あわててぼくは蓋をする。いまそんな感じです。
 このあり様では書きだすのにタイミング的にはまだかなあ、というのが正直なところです。
 そうそう、ホットドックの上からつぶすと、自働でケチャップとマヨネーズが交互に混ざりながらきれいな流線になって出て来てくれるあれ、ありますよね。ああいう感じでイメージをするするっと出てきてゆるやかに交叉して物語を紡げるのが理想なんですが。それが物語作者の仕事なんでしょうけれどね。
 文章の始まりを華麗に決める匠の技にあこがれるものの、まだ制御しきれていない記憶の数々をもてあましたままでは、そんな贅沢も言ってられません。
 だから今回ちょっとずるい始まり方の用意はしてあるんです。迂回するようですが、そこから始めます。

 あれはもう何年前のことでしょうか。
 近所の喫茶店の常連にぼくはなっていて、そこは隅の席で黙って本を読んでいて何時間ねばっていてもマスターは放っておいてくれるのです。
 二杯目からのコーヒーのおかわりは何杯でもずっと百円。
 そういう気前のいい商売が出来るのも、そこはセレクトした古書が店内を四囲していて古書店の商売もしていて、それにランチのカレーが評判よく土日だと行列ができるほどで(だからぼくは昼時を外して行くのですが)こじんまりとした店ながらなかなかに商売上手だなと思って、いまも通っているのです。
 マスターとはいまも注文の声をかけるだけの仲ですが、視線のやりとりだけは相思相愛のような錯覚をいだくのはぼくだけでしょうか。
 いまぼくは松本に住んでいて、その喫茶店も松本の中心街をちょっと外れたところにあります。
 松本はいま二十数万の都市。城下町でありクラフトの街でもあり、そこそこ文化都市の香りがします。
 その喫茶店も地元のひとなり観光のひとなりの有名スポットになっていて、店の真ん中にでっかく据えられた檜でできた巨大な円盤状のテーブルを囲むように座ってカレーを食べるのが観光客の作法と決まっているようです。
 でもこの盤テーブルは隅の席のぼくにも用があって、テーブルの真ん中に手を伸ばしてようやく届くくらいのポジションに、ミニシアター系の映画の上映会や芸術市民ホールで開かれる芝居や音楽のチラシが品よく扇状にレイアウトされて置かれているのでした。
 映画の上映会のチラシは毎月全種類そこから手にとってからまた定位置の隅の席に座って一枚一枚丁寧にめくっては、足を運ぶかどうか決めていくのでした。
 その一枚を見て裏に返したとき、いきなり「恩師・宮崎駿」という文言が目に飛び込んできて、ぎくりとしました。後ろからわっ!と脅かされたようなショックでした。
 どの映画か、ほのめかしてもしょうがないでしょう。
 映画は『NOT LONG, AT NIGHT』。主演は玉井夕海さん。いま調べると二〇一二年の映画。もう十年も前ですか。
 そのチラシを見て、玉井夕海さんのプロフィールに「東小金井村塾」の二期生とあり、『千と千尋の神隠し』でも声優として出演していました。
 この『NOT LONG, AT NIGHT』映画で玉井さんは主演なので、ひと言コメントを寄せていて、「恩師・宮崎駿に言われた言葉が思い出されます」云々という言葉がチラシに掲載されていたのです。
 ぼくは同じ「東小金井村塾」の塾生として、出会い方が違うと宮崎さんへの眼差しがこうも違うのだと衝たれるような思いでその文言を見つめてしまったのです。

 「東小金井村塾」とは、スタジオジブリが主宰した若手アニメ演出家を養成することを目的とした塾のことです。二期だけつまり二年間だけ続き、玉井夕海さんはその二期生、塾長は宮崎駿なのでした。ぼくが塾生だったのは第一期の方なので、玉井さんとは面識はなく、第一期の塾長は高畑勲さんでした。
 ぼくはこの塾に参加したことがきっかけになり、塾が最終講義で終わってから誘いがあって、ジブリで働くことになったのです。
 「東小金井村塾」がどんな形で開催されていたのか、うろ覚えです。もう四半世紀前ですからね。
 ぼくは隔週の土曜日だったような記憶がするのですが、ほかのひとは毎週金曜日の夕方だったという証言がサイト上にあります。
 ちなみにネット上で塾生だったことをテキストとして書いて公言しているのはこのひとただひとりです。

www.digital-knowledge.co.jp

 インターネットビジネスの会社役員をやっているこの人物は、確かにわたしと同じ一期生として塾に在籍していたのですが、このひとが厄介なのは自分の会社のサイトにこのようなジブリの回想記を書いていることです。
 この回想記を読むと、このひとはあたかもジブリで働いていた、みたいな誤解を生む書き方をしていますが、それは真っ赤な嘘なのです。
 こういう始末に悪い嘘回想記って、誰か問題にしないのかなと不思議です。
 こんなことを平気でやれるひとですから、ご自分の会社内では《かつてぼくは本当にジブリで働いていたんだよ》という嘘の既成事実を作って生きていたとしても全然不思議でない、十分あり得る《嘘まみれの人生》を送っているのでしょう。
 しかしこの《偽ジブリマン》の存在は、ジブリが生み出すあの強烈な磁力があってこその、その存在と言えるでしょう。氏は社会的に十分すぎるほど成功を収めながら/あるいは収め終わったからこそより貪欲に《ジブリの成功という果実》とぐちょぐちょにまみれたいのでしょうか。
 この《嘘ジブリマン》に典型的なように、ジブリの作品なりジブリのブランドイメージなりが強く放つ《ピュアネス》に多くのひとが惹かれながら/惹かれるあまりに各人がとってしまう行動の《ピュアとは言いがたい虚飾を求める心、さもしい心算、偽りを言ってでも浴びたい栄光》を自分も得たいと思ってしまうのだと思います。

 でもこの《嘘人物》に、本当にジブリに選ばれるって、過酷なんだよ、と同時に言ってやりたいです。
 ジブリの虚飾にへいこらするのでなく、ジブリと本当に創造的に関わるってどれほど大変ことか。
 ベテランのスタッフならともかく、まだ大学を卒業したての若者にそんな過酷なまでの創造性を求めるのって、ジブリもまあひどいことするよねと、あれから四半世紀も経ちぼくも老年の域に入ってようやく、諦めるような気持ちで思いだせるのです。
 でもぼくがジブリで人生狂わせてしまったのも、ジブリのひとびとにその責を全て負わせるのだとしたらそれはそれで嘘になります。何しろぼく自身がジブリを焚きつけた側面もあるのですから。
 ジブリが主宰する演出家養成塾なんて、どんな若者が集まってくるか、いまならたやすく想像できます。ジブリの作品を愛し、ジブリの創造主を崇める、それがデフォルトなのでしょう。
 ぼくが後にジブリに雇われる結果になった一因は、明らかにそういうデフォルトを無視してスタジオに登場したからでしょう。
 あの塾にあって、ぼくはもう初めから、存在そのもの《異質》だったのでした。そのうえ、言ってることに説得力があったのであれば、《悪目立ち》するのも決まっていたようなものでした。
 確かにぼくも十代の思春期のころはいっぱしのジブリ信奉者でした。しかし大学に入り上京し、古今東西の映画を浴びるように観て、大学の講義では批判的知性を身につけたとき、世の中にはジブリよりすごい作品なんてごまんとあるのだと、目が覚める思いになって、新しい可能性を追い求めて鑑賞と思索を繰り返す毎日でした。
 だから新聞の広告欄の隅に、東小金井村塾塾生の募集を発見し、塾長は高畑勲だと知ったとき、大学の四年間で変化した自分が、アニメ界随一の論客と言われる高畑勲と出会ったなら、どんな議論を交わせるか試したい、そう思ったのでした。

 これをいま読んでいるひとはぼくの当時の決意をどう思っているのでしょうか。
 若さの傲慢、若気の無謀。
 そうなのでしょう。ただ相手は高畑勲さんだったのです。若造がとか、小憎らしいとか、思いはしたでしょう。しかし高畑さんが高畑さんである所以は、そういった俗臭を自分の眼から拭い去り、相手の言ってることそのものに理があるかどうかをクールに判断するひとでした。
 俗臭ふんぷんたる大人だったら、搦め手でいなすように対処してぼくを黙らせたことでしょう。しかし高畑さんというひとは異論反論をまっすぐに受け止め、それを冷静にそして冷徹なまでに検討に付すのです。高畑さんは振る舞いよりも物言いの責任に敏感で、「その意見はちょっと浅はかなんじゃないですか?」と問い詰め、「わたしはそんな考え、どうでもいいですがね」と冷たく突き放し、「だからあなたはダメなんですよ」と人格否定する光景すらありました。ときにぼくですら、議論を楽しむのでなく、真っ向からぶつかりあい、お互い怒鳴りあうというときもありました。しかしそんな一触即発な場面は塾の後期に入ってからのことです。ぼくですら、いったいどういう流れでこんなひりひりしたやりとりの場になったのかと思うこともしばしばありました。

 塾は開校当初からそうだったわけではありませんでした。
 塾が始まり、毎週なり隔週なりの夕方、スタジオの中二階の会議室に若人たちは集まり、高畑氏はのそのそと照れたような顔で現れ、まずはアニメの基礎に関わる講義が始まったのです。しかし回を重ねるごとに高畑さんのレクチャーの度合いが少しずつ薄まり、塾生たちの意見を聞き、そのうえで話を進めていくという形へと変異していき、様々な課題がいつも出されていたものの、それで高畑さんが断定的に評釈をつけるのでなく、あくまで塾長と塾生の五分と五分の意見を交わしあうのを高畑さんは強く求めてきたのでした。
 そしてそれはぼくにとって、都合のよすぎる展開でした。逆にほかの塾生の多くが意見を表明するのにためらいがちでした。なぜ遠慮するように意見を出さないのかと、当時ぼくはいらだっていました。意見であふれそうになるぼくは、悪目立ちしているような罪悪感を感じながら、しかし言うべきを言うしかないと、積極的に発言しました。けれどぼくと塾生の差がいまなら当たり前のこととしてわかります。みんなジブリを崇拝していたのです。そんな自分に、ジブリ的価値を疑えと高畑さんからそそのかされたのです。それは酷な要求だったと思います。一方で高畑さんに気に入られたいと思いながら、そうであるには自分の依拠していた価値そのものを否定しないといけないし、そんな発想をそもそも持っていないのでした。
 そして悪目立ちをしていく過程で、ぼくの存在は塾から離れて、スタジオ全体まで噂としてひろがっていったのでした。あの高畑勲を五分で議論を交わす若造がいると。結果、その噂は宮崎さんや鈴木敏夫プロデューサーまで伝わり、「面白いやつがいる。あいつを雇ってみようじゃないか」、ということになったのらしいです。

 塾の第一期生からはぼくだけがジブリに雇われることになり、第二期では数人が採用されたと聞いています。というか、これはまたあらためて詳しく書こうと思うのですが、ぼくが塾に参加した冒頭、高畑さんはこの塾を通じてジブリに採用することはないとはっきり最初に明言したのです。だからぼくが塾が閉講してから採用の打診をうけたとき、とても複雑な気持ちになってその要請を聞いたのでした。このとき生まれた葛藤は言語を超えた苦しみになってぼくを悩ましたのでしたが、そのことはまた、詳しく書きたいのです。
 玉井夕海さんが映画のチラシに寄せていた「恩師・宮崎駿」という謂いから語り始めたのでした。ひとと比べて自分はこう、という切り口はあまり感心したものではないとは思います。そうであっても、純粋に「恩師・宮崎駿」と口にするとき、玉井さんはその都度どんな思いをしてそれを言っているのだろうとは、本気で気になることです。
 ぼくにとって宮崎駿は「宮崎さん」であって、「宮崎監督」でも「宮崎先生」でもなく、まして「恩師・宮崎駿」なんて、今回そんな呼称を聞くまで思いもしませんでした。実際、恩師でも何でもないですし。
 ぼくがあえて宮崎さんをどう呼ぶか、しばらく考えた末に思いついたのは「罪つくりなひと」。「罪つくり・宮崎駿」。あのひとに関わったひとなら、こっちの呼称の方が断然支持率が高いでしょう。

 とは言え、ジブリで働いていてよかったな、と思ったのは上下関係に関してリベラルなところでした。「宮崎監督」ではなく「宮崎さん」とスタッフのみなが呼び、「鈴木プロデューサー」でなく「鈴木さん」と、一切敬称を略して呼んでいました。
 上下の関係なく「さん付け」で呼び合う。むしろ現場内での・スタッフ間での上下関係を、ことさら助長すまいとするような戒めすら働いていた現場だったことは、いまではぼくはかけがいのない経験をしたと思っています。
 逆にそういうリベラルな呼び合いの文化に馴れてしまっていたので、スタジオを辞めて大学院に進んでから、飲みの場で教授のことを「何々さん」と呼んでいたら先輩院生から大目玉をくらったりしました。そう言われて正直「ちぇっ、なんぼのもんだい」と思いながら敬称で呼ぶようになりました。
 なのでいまでもぼくはジブリのことを話すとき、宮崎さんと言い、高畑さんと言うようになっています。ひとによってはそれを、なれなれしい、図々しいと思っているかもしれません。でも働いているとき実際そう呼んでいたのですし、辞めたからといって交流がまったく途絶えたわけでなく、辞めてから二十数年で数回スタジオを訪れて宮崎さんや鈴木さんに会って話をする機会があるので、なおさら従来どおり「さん付け」で呼ぶののがぼくにとって自然なのです。
 ジブリのことを聞かれて話をするときに、自然な気持ちで「あのとき、宮崎さんが……」と言うとき、相手のひとが違和感を浮かべた表情をするときがあります。自分とぼくとでジブリへの距離感がそもそも違うこと、それを呼び名で感じ取っていることが様子で察せられて、あわててぼくは「宮崎駿というひとは……」などと、かえって変に慎重な呼び方をしてしまったりします。
 玉井夕海さんの話にもう一度もどしましょう。
 玉井さんは役者ですから、映画での役柄についてふれるのはともかく、その映画そのものと関係の必然性がないままに、村塾出身であったり、宮崎さんを恩師と呼ぶのは、本当に積極的に、自ら進んでそうしているのかなあと半信半疑に、チラシを裏返しながら思ったものです。
 もしかしたら映画のプロデューサーなりが「そこを売りにしなきゃ」と言われてそうしている可能性もなくはないのです。
 いったんジブリに関わったひとは、まず半永久的に自分の属性に「ジブリ」が冠として課せられます。たいがいは本人の意向と関係なく。
ジブリだったイシゾネ」みたいな。
 多くの場合、その冠は第三者から見れば栄光の冠かもしれません。
 が、本人にとってはいまいましい茨の冠だったりします。

 野次馬好奇心で「ジブリだったイシゾネ」(という言い方も変な表現ですね、でも実際そう言われ続けてきました)そう呼ばれるのが嫌になってしまい、それならと一念発起して「いまアニメ研究者であるイシゾネ」になるべく、その第一弾として文学研究の学会でアニメ研究を発表しました。
 その学会当日、事前の打ち合わせを運営の方としたのですが、司会進行をやってくださる先生がぼくのことを独自に調べていて、ぼくの発表の頭に持ってくるプロフィール紹介にジブリ出身であることを入れ込むことにしていたのだとわかりました。
 ぼくは「その経歴だけは入れないで、紹介していただけませんか」とお願いしました。ジブリ出身である呪縛からのがれるために始めたアニメ研究をしょっぱなからジブリ出身のアニメ研究者」とされては元も子もありません。
 もしジブリ出身という経歴を生かしいまアニメ研究をやってますと紹介されたら聴衆の反応はだいぶ違っていたでしょう。「なにしろジブリで実際働いた経験を生かした内容なのだろうし……」
 しかしぼくは「まさにジブリで得た見解」を、そういった俗受けする七光りの虚飾をはがしてみたうえでその知見を披露したら、さてどうなるか、その結果こそ知りたかったのでした。
 そうやって行った学会発表は半ば予想してとおり、賛否両論どころかほとんどのひとが首をかしげていました。声をあげて(その学会の場で、あとで学会の会報で)ぼくのアニメの見解を全否定してかかりました。
 けれどその非難の論拠は相手をするにはまったくバカバカしいものでした。
 大学で難しくモノを考えているひとと世間で目されている大学教師たちもアニメの画面の視え方に関する限り素人同然で、現場で鍛えあげた視え方もその出自を隠して表明すれば傾聴に値しない意味不明な言葉にしか聞こえないのでした。そして否定的見解を表明する大学教師たちはぼくが提示した不可解な見解を、まずは生理的な拒否反応で応じたことが、手に取るようにわかりました。(その10へつづく)

 ぼくは知的あるべきひとたちの生理的な拒否反応にがっかりしましたが、手応えも感じていました。
 ジブリで鍛え上げた「眼」も、わたしはジブリ出身ですと虚飾で自分を包まなければ、理解すらしてもらえない。しかしそういう「未知の眼」を自分は得てしまったのだと。
 あの学会で「わたしジブリです」と言っていたらどうなっていたでしょう。
 ささいな経験をひとつ挙げてみましたが、ある種のひとびとは「ジブリだった」ことを態度を一変させます。その変貌を目の前で見ていると、いやなものを見てしまったなと思います。そのひとの俗臭を嗅いでしまうわけですから。でもその原因は自分の出自にあるのです。だからそれはそれでやりきれない気持ちになるのです。
 
ジブリである」ことはほんとうに不思議です。世間で有名な職場であろうとこれほどインパクトを与えないかと思います。
 ぼく、財務省のキャリアなんだけど。
 オレ? フジテレビで働いているよ。
 わたしが勤めているのは三菱です。
 それに比べても、ぼくジブリだったんだ、明らかに違う。
 じぶんが実際身を置いておいたいたとしても、こんなことを言うのは何ですがスタジオジブリとは「現代の神話的な空間」なんだろうと思うのです。
 ジブリを辞めたころは、あと十年もすればジブリはさほど評判の存在ではなくなるだろうと高をくくっていましたが、どうもそう都合よくはいかないようです。

 玉井夕海さんに限らず、なんらかの形でジブリに関わったひとたちは、「わたしジブリです問題」にどう処しているのでしょう。特にそれ以上にキャリアに箔がない場合。
もののけ姫』のアシタカの声をやった松田洋治さんはあるインタビューで、どれだけ役者のキャリアを積んでもいまだにアシタカ役を言挙げされていまいましい思いをしていることを率直に語っていました。その気持ちはいたいほどよくわかるのです。
 端的に言ってぼくにとってジブリとは、自分というものに刻まれた異物としてあります。それをひとに開陳すれば当然それは心地のよいジブリ話ではなく、なんとも厄介で幾重にも屈折した話になるでしょう。
 もうあの会社を辞めてから二十年が経ちます。それでも外出して買い物をするたびにその店内でかかっているBGMにジブリの映画音楽が必ずと言ってよいほどかかります。それはぼくにとって心地のよいBGMであるはずもなく、じぶんのなかで解消できていない胸苦しさが嫌悪感とともに呼び起こされるのです。
 そのたびに、まだ終わってはいない、と思うのです。
 だからぼくはジブリの体験とその後の生を「gの烙印」と呼ぶのです。gであって、ジブリ、と言いたくないのです。gとアルファベットで暗示させるのは、ぼくと心理的な葛藤との間に緩衝する膜で隔てておきたいからです。
 BGMを耳にするだけで呼び起こされる胸苦しさと、体感としてよみがえり全身を深く焼きごてのように刻まれた思い出の数々。
 
 ぼくのこの口ぶりに自嘲であるにしても、自慢がひそんでいはしないでしょうか。
 その誤解、誤解なのでしょうか?、は払拭したくて書いているはずなのですが。
 あなたに親密さを込めてぼくの苦しさを再現するように語る。なかなか難しい課題です。
 そうであってもまずはここから始めるしかないのです。
(この項、おわり)