gと烙印(@アニメてにをは)

ジブリにまつわる回想、考察を書いていきます。

gと烙印:第1回~焼きごてのような思い出【オリジナル長文バージョンで】

 さて今度こそは、ぼくとジブリの話です。
 どこから話を始めたらいいのかわからないのです。ふたを空けて少しでも脳をにゅっと押すと、ジブリ専用の脳内から言葉にならないイメージがきれぎれのまま飛び交って、順番などおかまいなしに出口を目指してあふれそうになり、あわててぼくは蓋をする。いまそんな感じです。
 このあり様では書きだすのにタイミング的にはまだかなあ、というのが正直なところです。
 そうそう、ホットドックの上からつぶすと、自働でケチャップとマヨネーズが交互に混ざりながらきれいな流線になって出て来てくれるあれ、ありますよね。ああいう感じでイメージをするするっと出てきてゆるやかに交叉して物語を紡げるのが理想なんですが。それが物語作者の仕事なんでしょうけれどね。
 文章の始まりを華麗に決める匠の技にあこがれるものの、まだ制御しきれていない記憶の数々をもてあましたままでは、そんな贅沢も言ってられません。
 だから今回ちょっとずるい始まり方の用意はしてあるんです。迂回するようですが、そこから始めます。

 あれはもう何年前のことでしょうか。
 近所の喫茶店の常連にぼくはなっていて、そこは隅の席で黙って本を読んでいて何時間ねばっていてもマスターは放っておいてくれるのです。
 二杯目からのコーヒーのおかわりは何杯でもずっと百円。
 そういう気前のいい商売が出来るのも、そこはセレクトした古書が店内を四囲していて古書店の商売もしていて、それにランチのカレーが評判よく土日だと行列ができるほどで(だからぼくは昼時を外して行くのですが)こじんまりとした店ながらなかなかに商売上手だなと思って、いまも通っているのです。
 マスターとはいまも注文の声をかけるだけの仲ですが、視線のやりとりだけは相思相愛のような錯覚をいだくのはぼくだけでしょうか。
 いまぼくは松本に住んでいて、その喫茶店も松本の中心街をちょっと外れたところにあります。
 松本はいま二十数万の都市。城下町でありクラフトの街でもあり、そこそこ文化都市の香りがします。
 その喫茶店も地元のひとなり観光のひとなりの有名スポットになっていて、店の真ん中にでっかく据えられた檜でできた巨大な円盤状のテーブルを囲むように座ってカレーを食べるのが観光客の作法と決まっているようです。
 でもこの盤テーブルは隅の席のぼくにも用があって、テーブルの真ん中に手を伸ばしてようやく届くくらいのポジションに、ミニシアター系の映画の上映会や芸術市民ホールで開かれる芝居や音楽のチラシが品よく扇状にレイアウトされて置かれているのでした。
 映画の上映会のチラシは毎月全種類そこから手にとってからまた定位置の隅の席に座って一枚一枚丁寧にめくっては、足を運ぶかどうか決めていくのでした。
 その一枚を見て裏に返したとき、いきなり「恩師・宮崎駿」という文言が目に飛び込んできて、ぎくりとしました。後ろからわっ!と脅かされたようなショックでした。
 どの映画か、ほのめかしてもしょうがないでしょう。
 映画は『NOT LONG, AT NIGHT』。主演は玉井夕海さん。いま調べると二〇一二年の映画。もう十年も前ですか。
 そのチラシを見て、玉井夕海さんのプロフィールに「東小金井村塾」の二期生とあり、『千と千尋の神隠し』でも声優として出演していました。
 この『NOT LONG, AT NIGHT』映画で玉井さんは主演なので、ひと言コメントを寄せていて、「恩師・宮崎駿に言われた言葉が思い出されます」云々という言葉がチラシに掲載されていたのです。
 ぼくは同じ「東小金井村塾」の塾生として、出会い方が違うと宮崎さんへの眼差しがこうも違うのだと衝たれるような思いでその文言を見つめてしまったのです。

 「東小金井村塾」とは、スタジオジブリが主宰した若手アニメ演出家を養成することを目的とした塾のことです。二期だけつまり二年間だけ続き、玉井夕海さんはその二期生、塾長は宮崎駿なのでした。ぼくが塾生だったのは第一期の方なので、玉井さんとは面識はなく、第一期の塾長は高畑勲さんでした。
 ぼくはこの塾に参加したことがきっかけになり、塾が最終講義で終わってから誘いがあって、ジブリで働くことになったのです。
 「東小金井村塾」がどんな形で開催されていたのか、うろ覚えです。もう四半世紀前ですからね。
 ぼくは隔週の土曜日だったような記憶がするのですが、ほかのひとは毎週金曜日の夕方だったという証言がサイト上にあります。
 ちなみにネット上で塾生だったことをテキストとして書いて公言しているのはこのひとただひとりです。

www.digital-knowledge.co.jp

 インターネットビジネスの会社役員をやっているこの人物は、確かにわたしと同じ一期生として塾に在籍していたのですが、このひとが厄介なのは自分の会社のサイトにこのようなジブリの回想記を書いていることです。
 この回想記を読むと、このひとはあたかもジブリで働いていた、みたいな誤解を生む書き方をしていますが、それは真っ赤な嘘なのです。
 こういう始末に悪い嘘回想記って、誰か問題にしないのかなと不思議です。
 こんなことを平気でやれるひとですから、ご自分の会社内では《かつてぼくは本当にジブリで働いていたんだよ》という嘘の既成事実を作って生きていたとしても全然不思議でない、十分あり得る《嘘まみれの人生》を送っているのでしょう。
 しかしこの《偽ジブリマン》の存在は、ジブリが生み出すあの強烈な磁力があってこその、その存在と言えるでしょう。氏は社会的に十分すぎるほど成功を収めながら/あるいは収め終わったからこそより貪欲に《ジブリの成功という果実》とぐちょぐちょにまみれたいのでしょうか。
 この《嘘ジブリマン》に典型的なように、ジブリの作品なりジブリのブランドイメージなりが強く放つ《ピュアネス》に多くのひとが惹かれながら/惹かれるあまりに各人がとってしまう行動の《ピュアとは言いがたい虚飾を求める心、さもしい心算、偽りを言ってでも浴びたい栄光》を自分も得たいと思ってしまうのだと思います。

 でもこの《嘘人物》に、本当にジブリに選ばれるって、過酷なんだよ、と同時に言ってやりたいです。
 ジブリの虚飾にへいこらするのでなく、ジブリと本当に創造的に関わるってどれほど大変ことか。
 ベテランのスタッフならともかく、まだ大学を卒業したての若者にそんな過酷なまでの創造性を求めるのって、ジブリもまあひどいことするよねと、あれから四半世紀も経ちぼくも老年の域に入ってようやく、諦めるような気持ちで思いだせるのです。
 でもぼくがジブリで人生狂わせてしまったのも、ジブリのひとびとにその責を全て負わせるのだとしたらそれはそれで嘘になります。何しろぼく自身がジブリを焚きつけた側面もあるのですから。
 ジブリが主宰する演出家養成塾なんて、どんな若者が集まってくるか、いまならたやすく想像できます。ジブリの作品を愛し、ジブリの創造主を崇める、それがデフォルトなのでしょう。
 ぼくが後にジブリに雇われる結果になった一因は、明らかにそういうデフォルトを無視してスタジオに登場したからでしょう。
 あの塾にあって、ぼくはもう初めから、存在そのもの《異質》だったのでした。そのうえ、言ってることに説得力があったのであれば、《悪目立ち》するのも決まっていたようなものでした。
 確かにぼくも十代の思春期のころはいっぱしのジブリ信奉者でした。しかし大学に入り上京し、古今東西の映画を浴びるように観て、大学の講義では批判的知性を身につけたとき、世の中にはジブリよりすごい作品なんてごまんとあるのだと、目が覚める思いになって、新しい可能性を追い求めて鑑賞と思索を繰り返す毎日でした。
 だから新聞の広告欄の隅に、東小金井村塾塾生の募集を発見し、塾長は高畑勲だと知ったとき、大学の四年間で変化した自分が、アニメ界随一の論客と言われる高畑勲と出会ったなら、どんな議論を交わせるか試したい、そう思ったのでした。

 これをいま読んでいるひとはぼくの当時の決意をどう思っているのでしょうか。
 若さの傲慢、若気の無謀。
 そうなのでしょう。ただ相手は高畑勲さんだったのです。若造がとか、小憎らしいとか、思いはしたでしょう。しかし高畑さんが高畑さんである所以は、そういった俗臭を自分の眼から拭い去り、相手の言ってることそのものに理があるかどうかをクールに判断するひとでした。
 俗臭ふんぷんたる大人だったら、搦め手でいなすように対処してぼくを黙らせたことでしょう。しかし高畑さんというひとは異論反論をまっすぐに受け止め、それを冷静にそして冷徹なまでに検討に付すのです。高畑さんは振る舞いよりも物言いの責任に敏感で、「その意見はちょっと浅はかなんじゃないですか?」と問い詰め、「わたしはそんな考え、どうでもいいですがね」と冷たく突き放し、「だからあなたはダメなんですよ」と人格否定する光景すらありました。ときにぼくですら、議論を楽しむのでなく、真っ向からぶつかりあい、お互い怒鳴りあうというときもありました。しかしそんな一触即発な場面は塾の後期に入ってからのことです。ぼくですら、いったいどういう流れでこんなひりひりしたやりとりの場になったのかと思うこともしばしばありました。

 塾は開校当初からそうだったわけではありませんでした。
 塾が始まり、毎週なり隔週なりの夕方、スタジオの中二階の会議室に若人たちは集まり、高畑氏はのそのそと照れたような顔で現れ、まずはアニメの基礎に関わる講義が始まったのです。しかし回を重ねるごとに高畑さんのレクチャーの度合いが少しずつ薄まり、塾生たちの意見を聞き、そのうえで話を進めていくという形へと変異していき、様々な課題がいつも出されていたものの、それで高畑さんが断定的に評釈をつけるのでなく、あくまで塾長と塾生の五分と五分の意見を交わしあうのを高畑さんは強く求めてきたのでした。
 そしてそれはぼくにとって、都合のよすぎる展開でした。逆にほかの塾生の多くが意見を表明するのにためらいがちでした。なぜ遠慮するように意見を出さないのかと、当時ぼくはいらだっていました。意見であふれそうになるぼくは、悪目立ちしているような罪悪感を感じながら、しかし言うべきを言うしかないと、積極的に発言しました。けれどぼくと塾生の差がいまなら当たり前のこととしてわかります。みんなジブリを崇拝していたのです。そんな自分に、ジブリ的価値を疑えと高畑さんからそそのかされたのです。それは酷な要求だったと思います。一方で高畑さんに気に入られたいと思いながら、そうであるには自分の依拠していた価値そのものを否定しないといけないし、そんな発想をそもそも持っていないのでした。
 そして悪目立ちをしていく過程で、ぼくの存在は塾から離れて、スタジオ全体まで噂としてひろがっていったのでした。あの高畑勲を五分で議論を交わす若造がいると。結果、その噂は宮崎さんや鈴木敏夫プロデューサーまで伝わり、「面白いやつがいる。あいつを雇ってみようじゃないか」、ということになったのらしいです。

 塾の第一期生からはぼくだけがジブリに雇われることになり、第二期では数人が採用されたと聞いています。というか、これはまたあらためて詳しく書こうと思うのですが、ぼくが塾に参加した冒頭、高畑さんはこの塾を通じてジブリに採用することはないとはっきり最初に明言したのです。だからぼくが塾が閉講してから採用の打診をうけたとき、とても複雑な気持ちになってその要請を聞いたのでした。このとき生まれた葛藤は言語を超えた苦しみになってぼくを悩ましたのでしたが、そのことはまた、詳しく書きたいのです。
 玉井夕海さんが映画のチラシに寄せていた「恩師・宮崎駿」という謂いから語り始めたのでした。ひとと比べて自分はこう、という切り口はあまり感心したものではないとは思います。そうであっても、純粋に「恩師・宮崎駿」と口にするとき、玉井さんはその都度どんな思いをしてそれを言っているのだろうとは、本気で気になることです。
 ぼくにとって宮崎駿は「宮崎さん」であって、「宮崎監督」でも「宮崎先生」でもなく、まして「恩師・宮崎駿」なんて、今回そんな呼称を聞くまで思いもしませんでした。実際、恩師でも何でもないですし。
 ぼくがあえて宮崎さんをどう呼ぶか、しばらく考えた末に思いついたのは「罪つくりなひと」。「罪つくり・宮崎駿」。あのひとに関わったひとなら、こっちの呼称の方が断然支持率が高いでしょう。

 とは言え、ジブリで働いていてよかったな、と思ったのは上下関係に関してリベラルなところでした。「宮崎監督」ではなく「宮崎さん」とスタッフのみなが呼び、「鈴木プロデューサー」でなく「鈴木さん」と、一切敬称を略して呼んでいました。
 上下の関係なく「さん付け」で呼び合う。むしろ現場内での・スタッフ間での上下関係を、ことさら助長すまいとするような戒めすら働いていた現場だったことは、いまではぼくはかけがいのない経験をしたと思っています。
 逆にそういうリベラルな呼び合いの文化に馴れてしまっていたので、スタジオを辞めて大学院に進んでから、飲みの場で教授のことを「何々さん」と呼んでいたら先輩院生から大目玉をくらったりしました。そう言われて正直「ちぇっ、なんぼのもんだい」と思いながら敬称で呼ぶようになりました。
 なのでいまでもぼくはジブリのことを話すとき、宮崎さんと言い、高畑さんと言うようになっています。ひとによってはそれを、なれなれしい、図々しいと思っているかもしれません。でも働いているとき実際そう呼んでいたのですし、辞めたからといって交流がまったく途絶えたわけでなく、辞めてから二十数年で数回スタジオを訪れて宮崎さんや鈴木さんに会って話をする機会があるので、なおさら従来どおり「さん付け」で呼ぶののがぼくにとって自然なのです。
 ジブリのことを聞かれて話をするときに、自然な気持ちで「あのとき、宮崎さんが……」と言うとき、相手のひとが違和感を浮かべた表情をするときがあります。自分とぼくとでジブリへの距離感がそもそも違うこと、それを呼び名で感じ取っていることが様子で察せられて、あわててぼくは「宮崎駿というひとは……」などと、かえって変に慎重な呼び方をしてしまったりします。
 玉井夕海さんの話にもう一度もどしましょう。
 玉井さんは役者ですから、映画での役柄についてふれるのはともかく、その映画そのものと関係の必然性がないままに、村塾出身であったり、宮崎さんを恩師と呼ぶのは、本当に積極的に、自ら進んでそうしているのかなあと半信半疑に、チラシを裏返しながら思ったものです。
 もしかしたら映画のプロデューサーなりが「そこを売りにしなきゃ」と言われてそうしている可能性もなくはないのです。
 いったんジブリに関わったひとは、まず半永久的に自分の属性に「ジブリ」が冠として課せられます。たいがいは本人の意向と関係なく。
ジブリだったイシゾネ」みたいな。
 多くの場合、その冠は第三者から見れば栄光の冠かもしれません。
 が、本人にとってはいまいましい茨の冠だったりします。

 野次馬好奇心で「ジブリだったイシゾネ」(という言い方も変な表現ですね、でも実際そう言われ続けてきました)そう呼ばれるのが嫌になってしまい、それならと一念発起して「いまアニメ研究者であるイシゾネ」になるべく、その第一弾として文学研究の学会でアニメ研究を発表しました。
 その学会当日、事前の打ち合わせを運営の方としたのですが、司会進行をやってくださる先生がぼくのことを独自に調べていて、ぼくの発表の頭に持ってくるプロフィール紹介にジブリ出身であることを入れ込むことにしていたのだとわかりました。
 ぼくは「その経歴だけは入れないで、紹介していただけませんか」とお願いしました。ジブリ出身である呪縛からのがれるために始めたアニメ研究をしょっぱなからジブリ出身のアニメ研究者」とされては元も子もありません。
 もしジブリ出身という経歴を生かしいまアニメ研究をやってますと紹介されたら聴衆の反応はだいぶ違っていたでしょう。「なにしろジブリで実際働いた経験を生かした内容なのだろうし……」
 しかしぼくは「まさにジブリで得た見解」を、そういった俗受けする七光りの虚飾をはがしてみたうえでその知見を披露したら、さてどうなるか、その結果こそ知りたかったのでした。
 そうやって行った学会発表は半ば予想してとおり、賛否両論どころかほとんどのひとが首をかしげていました。声をあげて(その学会の場で、あとで学会の会報で)ぼくのアニメの見解を全否定してかかりました。
 けれどその非難の論拠は相手をするにはまったくバカバカしいものでした。
 大学で難しくモノを考えているひとと世間で目されている大学教師たちもアニメの画面の視え方に関する限り素人同然で、現場で鍛えあげた視え方もその出自を隠して表明すれば傾聴に値しない意味不明な言葉にしか聞こえないのでした。そして否定的見解を表明する大学教師たちはぼくが提示した不可解な見解を、まずは生理的な拒否反応で応じたことが、手に取るようにわかりました。(その10へつづく)

 ぼくは知的あるべきひとたちの生理的な拒否反応にがっかりしましたが、手応えも感じていました。
 ジブリで鍛え上げた「眼」も、わたしはジブリ出身ですと虚飾で自分を包まなければ、理解すらしてもらえない。しかしそういう「未知の眼」を自分は得てしまったのだと。
 あの学会で「わたしジブリです」と言っていたらどうなっていたでしょう。
 ささいな経験をひとつ挙げてみましたが、ある種のひとびとは「ジブリだった」ことを態度を一変させます。その変貌を目の前で見ていると、いやなものを見てしまったなと思います。そのひとの俗臭を嗅いでしまうわけですから。でもその原因は自分の出自にあるのです。だからそれはそれでやりきれない気持ちになるのです。
 
ジブリである」ことはほんとうに不思議です。世間で有名な職場であろうとこれほどインパクトを与えないかと思います。
 ぼく、財務省のキャリアなんだけど。
 オレ? フジテレビで働いているよ。
 わたしが勤めているのは三菱です。
 それに比べても、ぼくジブリだったんだ、明らかに違う。
 じぶんが実際身を置いておいたいたとしても、こんなことを言うのは何ですがスタジオジブリとは「現代の神話的な空間」なんだろうと思うのです。
 ジブリを辞めたころは、あと十年もすればジブリはさほど評判の存在ではなくなるだろうと高をくくっていましたが、どうもそう都合よくはいかないようです。

 玉井夕海さんに限らず、なんらかの形でジブリに関わったひとたちは、「わたしジブリです問題」にどう処しているのでしょう。特にそれ以上にキャリアに箔がない場合。
もののけ姫』のアシタカの声をやった松田洋治さんはあるインタビューで、どれだけ役者のキャリアを積んでもいまだにアシタカ役を言挙げされていまいましい思いをしていることを率直に語っていました。その気持ちはいたいほどよくわかるのです。
 端的に言ってぼくにとってジブリとは、自分というものに刻まれた異物としてあります。それをひとに開陳すれば当然それは心地のよいジブリ話ではなく、なんとも厄介で幾重にも屈折した話になるでしょう。
 もうあの会社を辞めてから二十年が経ちます。それでも外出して買い物をするたびにその店内でかかっているBGMにジブリの映画音楽が必ずと言ってよいほどかかります。それはぼくにとって心地のよいBGMであるはずもなく、じぶんのなかで解消できていない胸苦しさが嫌悪感とともに呼び起こされるのです。
 そのたびに、まだ終わってはいない、と思うのです。
 だからぼくはジブリの体験とその後の生を「gの烙印」と呼ぶのです。gであって、ジブリ、と言いたくないのです。gとアルファベットで暗示させるのは、ぼくと心理的な葛藤との間に緩衝する膜で隔てておきたいからです。
 BGMを耳にするだけで呼び起こされる胸苦しさと、体感としてよみがえり全身を深く焼きごてのように刻まれた思い出の数々。
 
 ぼくのこの口ぶりに自嘲であるにしても、自慢がひそんでいはしないでしょうか。
 その誤解、誤解なのでしょうか?、は払拭したくて書いているはずなのですが。
 あなたに親密さを込めてぼくの苦しさを再現するように語る。なかなか難しい課題です。
 そうであってもまずはここから始めるしかないのです。
(この項、おわり)