gと烙印(@アニメてにをは)

ジブリにまつわる回想、考察を書いていきます。

gと烙印:その10~流れに任せて書いてみたら(その2)

 かつてはぼくも、昨今の映画事情にもうちょい詳しかった。少なくとも東京の大学を卒業してジブリに勤めてそこを辞め、札幌の大学院に入って数年、30歳前後までは、あれこれ映画を見ていた。
 そこから何だかすうっと映画から遠ざかった。そのころ最後に熱意を持って見た映画は思い出せる。『フルスタリョフ、車を』で驚愕し、『ポーラX』で悩まされ、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』でカンカンになって帰途に就いた。どうやら2000年から2001年ぐらいを境に映画から遠ざかったらしい。
 それ以後、ぼくの中で映画の同時代が消えた。いまどんな映画をやっているか、どんな映画が評判になっているか、そういう情報に疎くなった。

 こうも情報に疎くなったのは、情報の流れがインターネットへと移ってそのインターネットをうまく活用できなかったり活用しようと思わなかったからだと思っていた。実際そうなのだけれど。
 それはひとつの解答ではあるけれど、もうひとつのこっちが本当の答えなんじゃないかと気づいた。

《自分を作り手として意識することをやめた》。これが答えだった。

 映画が作りたくて大学で自主制作映画を作り、ジブリに入社して「まあ、アニメも映画のうちか」と妥協しながらもまだ映画(アニメ)を作る意志があったし、大学院に入学した頃はビデオカメラが安価になっていたので、かつて8ミリフィルムの厄介さに手痛い目にあっていた身からすると「自主映画を再び、フットワーク軽く作れるな」と思い、実際ビデオカメラを買った。ビデオを編集するためにと思ってその当時けっこういいスペックのパソコンも買った。自主映画とメジャー(ジブリ)の振れ幅は大きかったが《映画を作る》という意志はゆるぎなかった。

  さてさて。作り手たらんとする意志はどうやって消えたんだろうと思い巡らす。

 あの頃の周辺的な記憶を思い出すと、高校の非常勤講師をやって学級崩壊したクラスを建て直したり、学年主任と骨肉の争いをしたり、そのストレスで首が曲がる病気にかかって半年間寝たきり生活を送った。
 ようやく病気が治って大学院に復帰したら、その間に新たに院に来たひとがアニメ論をやるからと、頼まれてそのひとのゼミ発表に行き仕方なくジブリ作品を数年ぶりに見せられた。そのときアニメの画面の見え方が会社員時代の以前と以後とで全く違っていることに初めて気づいた。これをどう言葉にするか、これが今に至るアニメ論への出発だ。

 では、どうして作る意志は消えたのだろう。

 作り手から論じ手へと、本気でシフトチェンジしたからだろうか。
 しかしそれでは説明がつかない。自分の中に渦巻きつづけるいくつかの物語(ストーリー)にここ十数年、どうやって折り合いをつけていたのだろう。(その3へつづく)

animeteniwoha.hatenablog.com