gと烙印(@アニメてにをは)

ジブリにまつわる回想、考察を書いていきます。

gと烙印:その10~流れに任せて書いてみたら(その10)

 おさらい。映画もアニメも漫画も、作り手たらんとする手段としてはもう棄てた。作り手たらんとする手段の眼中から外れると、一気に疎遠になる性情らしい。映画上映のボランティアも、それに参加することで辛うじて映画というものを意識の隅にとどめようとしているだけかも知れない。現に自分がいかに映画に疎くなったのか自覚できる場所になっている。それって何の役に立つの、と問われても仕方がない自己確認だが。
 アニメもほとんど見る気になれず実際見ていないが、論を書かねばという使命が辛うじてアニメを意識させる。他にも通り魔的に「ジブリなイシゾネですか?」攻撃があって宿命のように変な角度にだけ意識する、させられる。しかしアニメをほぼ見ていない人が書くアニメ論って信用が出来るのか、という実に真っ当な疑問も、誰に問われるまでもなく、自分が首を傾げている。 

 たまに紙媒体でアニメの論を読むが、論を志した十年前とあまり変わってるような気がしない。僕が考えてることを言語化したものはないような気がする。アニメ業界で働いているひと、特にアニメーターは多少の差はあれ皆、「血肉化」して持っている考えに過ぎないのだけれど、アニメーター自身はそれをうまく言葉(共通語)にできていない。
 ようやく『アニメ・マシーン』が出版されたけど、知的特権階級を自認している人たちの独占的言語レベルで終わりそうな見当だ、とあの本の体裁を見て思った。

 声が遠く広く伝わるか保証は何もないけれど、ジブリの新作だけは家族と一緒に劇場に足を運ぶ、そういうとても広い層に使い回してもらえる論考に僕はしたい。

 《言葉を使いまわす》とはつまり、その言葉を使ってアニメを違う見方で見てしまうことだ。知的エリートな言い回しを使えば、セルアニメーションにおける《認識論的転回》を起こしたいということ。そういう小難しい言葉を使わず、日常用語で何とか説明したい。なんか《アニメ論客の橋本治》みたいな存在になりたいような趣旨の発言だ。

 橋本治も世情の知識には普段全然疎いのに、一を聞き知ると十を言い当てる名人なところがすごい。その発想のベースは高校の世界史の教科書で、でもその教科書をすごく丁寧に読んで覚えていて、それをお題に合わせて飽くことなく繰り返す。そうやって半世紀近く著述業を生き抜いてきたのだ。
 橋本治にとってコア(核)は世界史教科書から引いてきた知識のマンネリなのだけど、世情があちこち・話題は多岐にわたって、橋本さんに振り撒かれてくるので、著述の見た目の多彩さは世情の移り気が勝手に行なってくれる。逆に言えば、多様化した社会、激動転変する世界とか言われているけど、半世紀前の世界史教科書に載っていることで相変わらず説明できちゃうんだよ、そんなに大して世界は変わってませんよ、と橋本さんは言い続けてるようなものだ。
 そして橋本治の文章は全然難しい言葉を使っていない。でも一読して何か呑み込めない感じがある。日常語を使いながら、けっこうややこしい理屈を展開しているのだ。アニメ論客界(そんなものあればの話だが)のそんな橋本治になる。(その11につづく)

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