gと烙印(@アニメてにをは)

ジブリにまつわる回想、考察を書いていきます。

gと烙印:第101話~東小金井村塾の討論はこんなだった(その1)

 ある日朴さんは、会議室に現れて席に着くと、こう切り出した。
「いまゲームの業界が勢いがあるらしいですね。昔だったらアニメの方に来ただろう若い人材でゲームの業界を選んでいるひとが意外と多いと聞きます。
 ロールプレイングゲームというのですか、なんかプレイし終えると人生をひとつ生きてみた感動があるそうですね。それ、ほんとですかね? テレビの中のちっちゃい人物に、自分を投影できるものなのですか?私にはちょっとよく分からないのですが、その辺り、業界通の久住さんはどう考えていますか」
「ええと、そうですねえ」久住さんはいきなりの質問で苦しそうに、言葉をさぐりながら訥々と答えた。久住さんはゲーム会社でプロデューサー見習いをしている。
「別に業界通なわけでもないですし、ぼくはどちらかと言ったらアニメの方に転入したい口なのですが……
 でも、あれですね、難易度で言うと簡単にプレイ出来てしまったゲームの場合、プログラムをいじることになって、パラメーターって言うんですが、それをいじって難しくすると、何か不思議なんですが、ゲームが怖い顔して挑んでくるとか、そういう印象を抱いたりしたことはありますね」
 朴さんは面白そうに聞いてきた。
「面白いですね。なんでしょう、ウサギみたい大人しいゲームが急に猛獣みたいになるって感じですか」
「まあ、そうも言えますね」と言いながら、久住さんも半信半疑な様子だった。
「そんなに詳しいわけじゃありませんが、精神分析にこんな考え方があるといいます」片岡さんが口をはさんだ。「人間の心の中に無意識があるというのは皆さんご存知だと思います。
 で、われわれがこうやって喋ったり表現したりするのは、無意識が常に働いているそうなんです。
 そして無意識で考えていたことを表現へとイメージに変換するとき、そのイメージはそのまま移動するんではなくて、必ず《よじれて》生じると聞いたことがあります。
 であるなら常に無意識から意識を経てしゃべっているぼくたちの表現がこうやってリアルに思えるんですから、ゲームとはいえ人間の無意識から表現へと産み出されたキャラクターという想像の産物も、リアルに感じられたとしても不思議じゃないんですか」
「なるほど。我々がこうしてリアルであると思いながら生きているのと、ゲームしながらリアルであると思うことは、同じだと言うわけですね」朴さんが生き生きとした表情でこの発言に食いついてきた。
「いや、まったく同じだとは言っていません」片岡さんは口を濁すように言った。「あくまで理屈としては同じ構造をしていると言っているだけで」
「だって両方ともリアルなんでしょ?同じじゃないですか」
 朴さんは格好の獲物を得たように片岡さんに迫ってきた。
「その無意識がどうこうとかいう話は無理があるような気がします」そう言葉を継いだのは宇津井さんだった。
「ゲームってただのプログラムなんでしょ?生きていないんですから」
「そう!生きていない。そうですね。でも、宇津井さん、生きてないのにプレイしていると感動したり、猛獣みたいに思えてくるんでしょ。それはどうなんですか?」
 朴さんの矛先は宇津井さんに向けられた。
「疑似体験、ですか?」宇津井さんが戸惑いながら答えた。
「そうね。疑似体験。でも疑似ってことは嘘ってことでしょ。ひとが嘘に感動するものなんですか」
「嘘が感動を与えるというなら、朴監督こそそういうことに長けてるのではないですか?」望はそこで口をはさんだ。
「私が?感動を?」朴さんは身に覚えのない言い方をして笑った。
「「高原の少女」や「青毛の娘」でお茶の間を感動で包んだじゃないですか?」
「あれは私は別に、感動を与えるために作ったんではないですよ」
「それじゃ監督はなんのためにあれらの作品を作ったのですか?」菊池さんがすかさず聞いた。朴さんの創作態度を聞く絶好のチャンスだと菊池さんは思ったようだ。
「あれは仕事だったから作っただけですよ」朴さんはとぼけた。
「まあ、しかし」望は畳みかけるような気持ちで発言した。
「あれらの作品もまた片岡さんの言う無意識による産物なのでしょう。それはゲームのキャラクターと同じです。ゲームがプログラムで出来ているように、アニメはセル画で出来ている。どちらも命はない。しかしだからリアルでない、というわけでもない。
 ぼくたちがいまこうしてやりとりしている生きた会話もコミュニケーションですし、命のないはずのゲームやアニメもぼくたちが関わるときコミュニケーションが生まれる。
 コミュニケーションという媒介を得ながら、ぼくたちひとりひとりは無意識の領域へと向かって、そこから何らかのものを吸収し、そしてまた再び、ひとりひとりの頭の中に何らかのイメージが生命を宿すのではないでしょうか」
「つまり、ゲームやアニメも、私たちがこうやって話しているときに感じるリアルと同じだということですか?」朴さんはとぼけた顔でいざなうように望に問うてきた。
「いや、そこは違う、というか、一線を引いて考えた方がいいと思うなあ」宇津井さんが望をかばうような調子で言った。
「いや、基本的に同じなんじゃないですか」望は宇津井さんを切り捨てるようで申し訳なく思いながら言葉を継いだ。
「ゲームはとてもいい例えです。プログラムで出来ているゲームは、プログラムに従った限りで応答すれば、ひとはそこにリアルさを感じて、ときにはそのプログラムが展開する世界にひとは感動したり怖がったりする。
 しかしひとたびプログラムにない応答をするとまったくの沈黙か、整合性のない答えしか返ってこない。
 そのときひとは、ああこいつはリアルじゃないんだなと気づくわけです。
 実際そのいじっているのもそうなんでしょう?」
望が隣りの席に問いかけると、女性の塾生は手すさびにいじっていた「たまごっち」から目を上げて周りを見回て、ぴくりとからだを動かした。
「アニメもだからプログラムみたいなものですよ」望は言葉をつなげて言った。
「その作品が備えているプログラムに応じてひとはそれを楽しめたり、楽しめなかったりする。
 その限りではひとはそこにリアルを感じる。
 そうなると課題になるのは、その作品がプログラム的にどれだけキャパシティが大きいかを問われるわけで、ゲームという娯楽装置はそれを露骨に、プログラムなりパラメーターという形で明らかにしてしまった。
 結局そういうことなんじゃないでしょうか?」
「つまりアニメも生き物だということなのでしょうか」朴さんが追及してきた。
「いえ、そうは思いません。
 ぼくはいま、思いついたままに喋っていますが、その感じで続ければ、ゲームもアニメも生き物ではない。それはもう閉じてしまったプログラムです」
 望は頭の中で勝手に展開していくイメージに従って言い続けた。
「それに対しぼくらは時間の持続の中で刻々と変化しながら生きている。それを《回路が開かれている》と言ってもいいかもしれません。
 それでもアニメは生き続けると思います。
 回路を開いて生きている人間が関わる限り、アニメは完結していたはずの器でもって新たに、人間に、触発を与えているのではないでしょうか。
 わたしたちは作品そのものをただ享受や消費をしているのではなくて、作品を触媒として得られたイマジネーションへと向けて、われわれひとりひとりが無意識で働きかけをしている。それがその作品を《鑑賞している》と言える営みなのではないでしょうか。
 ひとつのアニメ作品をとりあげてみても、鑑賞するひとりひとりがそれぞれに、独自の形でコミュニケーションの回路を開いて作品に接しているのだと思います。
 その作品への関わりを、片岡さんが言うように無意識の方へと切り結び、そこに必ず《ねじれ》が入って、その結果ひとりひとりの捉え方がそれぞれ独自に変換されていく。
 だからひとはぞれぞれに解釈が分かれる、ということも起きるんではないでしょうか」
「なるほど、アニメというプログラムなり設計図が、ひとと接触したとき、解釈が生じるというわけですね」
「ただ、そう言いながら自分でも分からないのですが」望は一気に論点を進めた。
「解釈の多様性とかよく言われますよね。
 でも、大筋の理解は案外いっしょだったりするのが現実のような気もします。
 ほんとの多様性があるのだとしたら、異星人がそのアニメを見たときに生じるような、われわれには理解不能な解釈の手つきこそ、本当の《多様性》な気がします。
 そういう意味で言えば、われわれはさほど多様な解釈を持ち合わせていない気もします」
「異星人なんて気にしなくていいんじゃないですか、そんな非現実的な」朴さんはいまや冷ややかになって言葉をはさんだ。
「そうかも知れません」望は朴さんの言葉を無視するように言葉を続けた。
「ただ、いま発言をしながら気になってきたのは、様々な解釈があるように言われているものの、その違いとは、そもそもそんなに大したことじゃないような気がするんですね。
 様々に違いながら、実は大本において違わないもの。
 むしろ、なぜそういう大まかな共通理解が生まれてしまうのか?
 僕にはそっちの方が不思議に思えてきました」
「ふふふ。なんだか話が、私が考えていた以上に、大きな話になっているような気がしますね」
 朴さんが場を収めるような口調で言った。
「そもそも無意識から意識へという問題設定が、なにか大きな誤解というか、話の逸れ方を導いてしまったのではないでしょうか」
「すみません。こんなことになるとまでは、予想していませんでした」片岡さんがうなだれてつぶやいた。
「いや、それですませていいとは思いませんけどね」
 望は場の流れに逆らうことに苦痛を感じながら、あえて言葉を繋いだ。
 片岡さんが望のしつこさに顔をしかめた。
「リアルであるとは、意識のレベルだけでは説明がつかないのです。
 作りものでしかないと分かっているアニメであれゲームであれ、それが優れた地点に到達したときに、ひとは意識では説明がつかない感動を覚える。
 そのとき作品という《物質的なもの》を介して、作り手の無意識と受け手の無意識が響き合っている、とは言えないでしょうか。
 そのときその響き合いは、作り手と受け手の《二重のねじれ》を経ているわけですが、それでもなおつながりがあることの不思議。
 そのあたりまで考えないと、優れた作品が放つ魅力の源泉がつかめないのではないしょうか」
「もう、やめましょう」朴さんは厳しい口調で言葉を挿し挟んだ。「もう、意味が分かりませんよ。あなたはただ、言葉をもてあそんでいるだけです」朴さんは大きく息をつくと言った。
「私が軽はずみに話題をふってしまった、その責任はあるわけですが、わたしにはこういうのを、議論とは呼べませんね」
 塾生たちは神妙に黙った。誰もが首をすくめるようにして朴さんの宣託を拝聴しているのだったが、基本的には他人事として耳を素通りさせていて、この沈鬱とした空気をただ望ひとりの責にして皆が済ませていた。
 当事者である望は議論が無残に断ち切られたのをただ残念に思っていた。それでいて自分が何かひととは決定的にずれているのではないかという疑念にさいなまれ、その後の討論にはうわの空で付き合い、ひとりでこの苦さを反芻していた。