gと烙印(@アニメてにをは)

ジブリにまつわる回想、考察を書いていきます。

gと烙印:第7話―タタリと差別の正当化について(その1)

 読みさしの本を開いたら、こんな一節が目に飛び込んできて、笑った。
《君は何という風変わりな男だろう。貧乏人のくせに、人を驚かせたり、気味悪がらせるようなものを書きすぎるよ。》
 「貧乏人のくせに」という難癖が可笑しい。
 非論理的だけど、世俗感情をこれほどよく言い当ててる表現もないだろう。
 そうなのだ。貧乏人は人を驚かせたり、気味悪がらせたり、風変わりなことをしてはいけないのだ。貧乏人でないなら、それは許されるらしい。
 いやはや、実際そうだものな。

 gと烙印の第7話目を投稿します。
 こんなふうに、頼まれてもいないし、報われもしない文章を書くのって、相当エネルギーが必要なのですよ。
 だから無償な善意があって、気力もあるときに書いておくのが一番なのです。

 「もののけ姫」の制作に携わっていた間、監督やらスタッフやらにこの作品のことをあれこれ文句を言ったりしていたが、少なくともひとつだけ、言わなかったことがある。

 タタリによる伝染病の扱いに関してだ。
 主人公アシタカは劇中冒頭、憎しみに憑かれたタタリ神の触手に触れて、つまり感染して、タタリ病いに冒される。
 その病いは憎しみを覚えると感染が進むという設定らしい(野武士の狼藉に矢をつがえるときなど)。
 その一方でタタラ場の一角にはタタリ病人のための就労サナトリウムがあって、けど、その人たちの感染進行は憎しみとは関係ないようだ。

 ここでもう設定として矛盾している。
 英雄がなるタタリ病いと貧乏人(貧しく無名なひと)のかかるタタリ病いは性質が異なるらしい。
 宮崎駿の《選民思想》がうかがえる。英雄と凡人ではあつかいが違うというわけだ。

 この映画のラストは、首を切られてデイダラボッチになったシシ神に、アシタカがその首を捧げて「鎮まり給え」と呼びかけて首が合体。惨事は治まる。
 すると禿山に緑が萌え出ずるとともに、アシタカや病人たちのタタリ病いは、外見的痕跡だけ遺して病いから解放される。
 この筋立て、本当に大丈夫か?
 当時、危惧をいだいたものだ。(その2へつづく)

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