gと烙印(@アニメてにをは)

ジブリにまつわる回想、考察を書いていきます。

gと烙印:第7話―タタリと差別の正当化について(その2)

 制作当時、宮崎さんがハンセン病療養所(多摩全生園)を訪れたりしていて、このタタリ病いがハンセン病を暗示しているのはスタジオ内で公然の了解だった。
 実際、制作当時、宮崎さんご本人がこのモチーフの扱い方に、社会へ一石投じたような自負を漏らしていた。

 この作品の筋立てや設定、それに監督本人の考え方に、当時僕はものすごく怒りを感じながら仕事に携わっていた。
 こんな切り口、社会問題に意識があるどころか、差別意識が根深く巣食っているじゃないか、と。

 不治の伝染病を祟りとして畏怖の念を起こすのは、まあ昔の話ということで仕方ない。ハンセン病を隔離した政策もごく近い時代まで続いていた現実もあるのだし。

 しかし憎しみが病を進行をさせるって……大丈夫その設定?
 《病気の進行》が《感情の善悪》と関係しているって、それこそが《病気を道徳的に差別して・裁いて》いないか?

 そしてその病いが神の加護によって癒えるって……
 日本に生きているとそれは天皇崇拝と変わりなく思えるが、どうだろう?

 さてそんな作品のなかにあってエボシこそ、そういう《前近代的》な呪いの観念から自由であったからこそ、《前近代的差別》を乗り越えた《場》=タタラ場を作ろうとしたのではないだろうか。
 女を男と対等かそれ以上に優遇して就労者として活用し、またタタリの病者のために就労サナトリウムを作ったのも、そういう前近代的、土俗信仰的差別から《解放された》啓蒙君主だったからなんじゃ、なかったっけ?
 それにしても《労働する》ことが《ひととしての証(あかし)》のように位置付けるって決定的に《差別》ですよね。《労働至上主義者》=宮崎駿を批判していたのは斎藤環さんでしたっけ?

 タタリ病いの設定(=前近代的に差別される病)やタタラ場の特性(=偏見にとらわれないエボシの才覚によりタタリ病いの者たちのために就労サナトリウムをつくる)といったことすべてが、結末の《神の力で救われてしまう》って、タタリ病いをテーマのひとつに据えた意味をご破算にしてしまっている。
 病いに対する差別と対峙するのなら、それは人間の意志と力で解決しなければならないはずだ。エボシはそれを行おうとした。
 しかし作品では最後にデイダラボッチ=《神の力》によって病いが解決されてしまう。それはテーマにして言えば《人間の理性の敗北》でしかない。日本人好みに言えば《神だのみ》そのものだ。
 ここに何の社会的問題提起があるのだろう?

 宮崎駿は絵コンテを途中のままにして制作をスタートさせ、生さと同時に絵コンテを書き継ぐことでよく知られる。
 その結果、話の途中から結末までに、しばしば一貫した解釈が難しくなる局面にぶちあたることになる。
 「魔女の宅急便」ではなぜ飛べなくなり、なぜまた飛べたりするのか?
 あるいは「ハウルの動く城」の北の魔女は無力化されたままよいのか?あの案山子はなぜ最後にとってつけたように元の姿に戻るのか?
 観客は完成形をいきなり突きつけられて戸惑うばかりだ。好意的に、必死になって解釈の整合性を求めようとする。しかし制作の過程をゆっくりと時間をかけて付き合ってきたスタッフはよく知っている。それが、つじつまの合わない《作品の傷》であることを。

 「もののけ姫」の傷、つまり支離滅裂な内容になってるその原因のひとつが、ハンセン病の扱いにも作用している。それに神の超自然的な意向で病に罹ったり・治ったりしていて、こういう態度がハンセン病に理解ある眼差しだとは、とうてい思えないのだ。(その3へつづく)

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