だからぼくは、このいまいましい《ジブリという烙印》を塗り替えてやろうと思うのでした。
心の奥底で生み出されてきた《アニメ論》を手掛かりにして。
《ジブリだったイシゾネ》から《アニメ論の論客としてのイシゾネ》へと。
しかし十数年かけて渾身のアニメ論「アニメの「てにをは」事始め」を完成しても、ぼくは相変わらず《ジブリのイシゾネ》に過ぎなかった。
ぼくのアニメ論も《ジブリだったイシゾネ》というフィルターを介してしか読んでもらえないことがわかったのです。
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しかしアニメ論の執筆と並行して、ぼくの中の《ジブリだったこと》は少し趣を変えていました。
自分が唯一無二な《アニメ表現論》を開拓した自負が、《ジブリであること》を相対化していたと言えばいいでしょうか。
その結果、ジブリとぼくの関係はさらにさらに《ねじれた》形をとって、その奇妙さがぼくにとって《ジブリであること》はうまくフィットしたようなのだ。
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ぼくは確かに《ジブリにいた》。
しかし《ジブリにいたイシゾネ》の内実を知っているひとはほぼいない。
なにしろぼくは宮崎駿に《頼まれる形で》ジブリに入社したのだ。
その点でぼくの誇りは《ねじれた形で》実現している。
自分は《ジブリに興味なくして・ジブリへ入社した・稀有な人間》なのだと。
つまりぼくは《ジブリ》なり《宮崎駿》に対して、ねじれて/相対的に/独立した形で関わったという自負があるのです。
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そしてぼくは二十数年をかけて《アニメ論》を書き上げました。
そのアニメ論は従来の凡百のアニメ論とは違う、まったくの未開拓な領域を切り開いたものである、という自負があります。
その論文は《宮崎駿を・誰にも似ていない形で・論じた》という自負があります。
この局面で《ねじれ》はさらに、もうひとひねりする形で、自分は宮崎駿と関わりを持った、という自負が加わることになった。
《誰もが・想像のつかない形で》、ぼくは《宮崎駿を・切って・分析した》のだと。
(その4へつづく)