それから25年。
わたしは今度は論考という形でジブリに接触した。
その論考では誰も描いたことのない《宮崎駿(作品)像》が提示されたと自負しています。
25年前、「東小金井村塾」という場を介して、従来の形にない形でジブリに対した結果、ジブリに迎え入れられたように、いままた従来にない形で宮崎作品像を提示した結果、論考の価値が認められた。
さてわたしは《ジブリなり/宮崎駿なり》に「自己承認」してもらったのだろうか?
それは奇妙な「自己承認」でしょう。
わたしはジブリなり/宮崎駿なりに「愛をこめて・承認を求めた」のではないのですから。
むしろわたしがしたのは「批判的」にジブリなり/宮崎駿なりに接した結果「ねじれた」形で承認されたことになります。
実際「承認」などわたしは求めてはいなかったのです。
ジブリに雇われる可能性などつゆとも考えず、東小金井村塾で高畑勲と弁舌で闘った。
そして、いままた、誰も思い描いたことのないジブリ作品像を提示した。
そこには少なくとも「お追従」はないですね。
高畑勲と弁舌で闘おうと、論考をジブリに寄稿しようと、それはいつだって《批判的に/挑戦的》だったのです。
それが「承認」されてしまうという「皮肉」。
それは《ジブリに・いいように巻き込まれる》ことを意味するかもしれない。
実際ジブリに雇われた二年間はそんな煩悶と闘っていた。
しかし二十五年を経てアニメの論考を書き上げたいま、そんな煩悶はありません。
なにしろ二十五年間、ジブリに一切過程進捗など報告せず、孤独に(ときに稀有な出会いに助けられながらも)やはり孤独につむぎあげた論考だったのです。
そうした《孤独》は、いざジブリの「熱風」に連載が決まったところで、孤独の苦みと成功の甘味で天秤にかけられても、釣り合いがとれず、ただ「自恃の念とともに・自負がある」だけです。
《ジブリなり/宮崎駿なり》といくらよじれた関係であろうと、《特異に結びつけたという・自負》があるのでえす。
それは手軽な「自己承認」とは別物でしょう。
◆
わたしは確かに論考を携えてジブリへ赴き、宮崎さんや鈴木さんにそれを渡したとき、「認めてもらおうとする願望」はありました。
しかしその「承認」は《わたしがジブリに呑み込まれる》ような´《同一化への願望》ではありませんでした。
《わたし~/論考/~ジブリ》といった形で、「論考」を仲介にして「ねじれ」を含んだ「承認」がジブリから与えられたと思うのです。
そしてそれは、《誰とも似ていない》と自負の念で語れる《独異な関係》なのでした。
◆
オリジナルに/独異な関係において為された「自己承認」。
それはときに、「承認先」の担保すらいらないほどに特異なものになるでしょう。
実際、宮崎駿にせよ鈴木敏夫にせよ、わたしの論考が「熱風」に掲載されていることなど、もう忘れているでしょう。
しかしそれがどうだというのでしょう。
わたしは《誰にも似つかぬ形で・宮崎駿を切った》のだ。
それはもう「承認願望」ではなかったと、いまここまで書いてきて気づきます。
ジブリ側にどんな思惑があったにせよ、《あの論考》は多くの者の手にわたろうとしている。
それは《宮崎駿の像をかたどった爆弾》なのだ。
その「独異」さがわたしを慰めている。
◆
誰かに似るでなく、わたしの「独異さ」が認められる。
それこそが至上の「承認願望」なのかも知れない。
それでいて「願望」などもっていない。
「独異さ」が「独異さ」のままに思いがけず認められてしまうこと。
さらにわたしは自分の「独異さ」を駆使して、宮崎駿の「独異さ」をあぶりだした。
◆
《自己承認》とはひとさまざまだと思う。
ただわたしは《独異さ》をめぐって、ひとり闘うことが《自らを・慰めている》そういうことなのだろうか。
(この項、おわり)