gと烙印(@アニメてにをは)

ジブリにまつわる回想、考察を書いていきます。

gと烙印:第102話(全長版)~至上の《自己承認》

 

フェイスブック上でプライベートな形で書いた回想記「烙印」は全部で三十数話ある。
 一回一回の分量は長くて、今後このブログで掲載するにしても、全文オリジナルで一度掲載すると同時に、読みやすいように何回かに分けて掲載してもみようと考えています。
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 「熱風」で「アニメの「てにをは」事始め」を連載する過程で、その宣伝になればいいと思ってツイッターアカウント@animeteniwohaを始めて、その延長でこのブログ「gと烙印」を開始させました。
 そうなってくると、ジブリでの回想で書き残していなかった数々の思い出が残っていることにいまさら気づきました。
 それを少しずつ書いていこうと思います。
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 フェイスブックで以前書いた文章は二桁番台(~99話)に収めるとします。
 そしてこれから新しく書き始める文章は三桁番台(100話~)とします。
 それでこれは102番目。
 100話目は?と思われるかも知れませんが、記念すべき節目にあたる番なのでいつかのために留保しておきます。
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 いまこの投稿を読んでいるひとは、このブログを追うぐらいのひとだから、宮崎駿への思いはそれぞれにいろいろあるだろうと思います。
 その宮崎駿に認められたら、皆さんはどんな思いになりますか?
 承認願望という語があります。
 自分が相手から承認されたいと願う願望があるのだといいます。
 そういう気持ちあるのはあって当然だと思います。
 肯定感がなければ、なかなか人生はつらい。
 しかしこの「承認願望」というキーワードは、フェイスブックツイッターなどのSNSでもらう「いいね!」の隆盛と密接に絡んでいるのではないでしょうか。
 あの「いいね!」ほど、与える側が手軽に付与できる「承認」はないでしょう。
 しかしあれをもらうとすごく安心感がある。「認められた」と思う。その与えた側のそうした内実など関係なしに。
 そんなお手軽な「いいね!」が十二分に自己承認の印として機能するならば、じゃあ、本当に自分が敬意を持っていた人物から自分のことを「承認」してくれたらどうなるのでしょう。
 それこそが「至上の自己承認」ではないでしょうか。
 ぼくはその「至上の自己承認」をもらってしまったのです。
 宮崎駿監督にからだ。

 以前の記事にも書いたとおり、ぼくは宮崎駿さん本人から直接、ジブリへの入社を請われました。
《お前には才能がある。だからジブリに入るんだ!》
 ぼくはそう口説かれたのでした。
 そう口説かれた当時、ぼくにとってジブリという存在はそんなに大した大きさを持っていなかったのでした。
 古今東西の映画を観ればその中にあってジブリは無価値とは言わずとも、並み居る偉大な映画作家の列の末席を汚す程度に過ぎない。不遜にもそう思っていました。
 それはいまでもそう思っています。
 何千本もの映画を、その一作一作ごとの価値に従って鑑賞していけば、誰だってそうなるでしょう。ジブリはワンノブゼムだと。
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 だから宮崎氏のラブコールだって、かつて敬愛した作家からのそれに過ぎなかったのでした。
 しかし悪い気はしなかったです。
 主観的にはその言葉は空々しく響いたが、客観的には《これはすごいことが起こっているぞ》と驚いていました。
 宮崎さんの要請を受けてぼくはいとも軽々しくジブリに入社することになりました。
 ぼくの入社は、まったくの新人が、審査もなしに、フリーパスでジブリに入社した、その数少ない例になるだろう。
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 しかしぼくは挫折の形をとってジブリを辞めることになりました。
 それからの十数年は、自分がジブリであったことを尋ねられるのがひどく苦痛でした。
 《イシゾネさんって、ジブリだったんですか?》
 そう無邪気に尋ねられるたびに自分に刻まれた《ジブリという烙印》はうずいた。
 それはもう終わった過去なのだと言いたかったのでしたが、相手の無神経に無邪気な素振りを前にしては、苦笑いして答えるのが精一杯でした。

 だからぼくは、このいまいましい《ジブリという烙印》を塗り替えてやろうと思うのでした。
 心の奥底で生み出されてきた《アニメ論》を手掛かりにして。
 《ジブリだったイシゾネ》から《アニメ論の論客としてのイシゾネ》へと。
 しかし十数年かけて渾身のアニメ論「アニメの「てにをは」事始め」を完成しても、ぼくは相変わらず《ジブリのイシゾネ》に過ぎなかった。
 ぼくのアニメ論も《ジブリだったイシゾネ》というフィルターを介してしか読んでもらえないことがわかったのです。
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 しかしアニメ論の執筆と並行して、ぼくの中の《ジブリだったこと》は少し趣を変えていました。
 自分が唯一無二な《アニメ表現論》を開拓した自負が、《ジブリであること》を相対化していたと言えばいいでしょうか。
 その結果、ジブリとぼくの関係はさらにさらに《ねじれた》形をとって、その奇妙さがぼくにとって《ジブリであること》はうまくフィットしたようなのだ。
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 ぼくは確かに《ジブリにいた》。
 しかし《ジブリにいたイシゾネ》の内実を知っているひとはほぼいない。
 なにしろぼくは宮崎駿に《頼まれる形で》ジブリに入社したのだ。
 その点でぼくの誇りは《ねじれた形で》実現している。
 自分は《ジブリに興味なくして・ジブリへ入社した・稀有な人間》なのだと。
 つまりぼくは《ジブリ》なり《宮崎駿》に対して、ねじれて/相対的に/独立した形で関わったという自負があるのです。
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 そしてぼくは二十数年をかけて《アニメ論》を書き上げました。
 そのアニメ論は従来の凡百のアニメ論とは違う、まったくの未開拓な領域を切り開いたものである、という自負があります。
 その論文は《宮崎駿を・誰にも似ていない形で・論じた》という自負があります。
 この局面で《ねじれ》はさらに、もうひとひねりする形で、自分は宮崎駿と関わりを持った、という自負が加わることになった。
 《誰もが・想像のつかない形で》、ぼくは《宮崎駿を・切って・分析した》のだと。

 しかもこの論考は奇妙にもジブリのお膝元にあたるジブリの広報誌「熱風」に連載されることになりました。
 まったく無名の新人が雑誌「熱風」に連載を持つ異例の事態。
 宮崎駿さんに見出されて若手演出家候補《逸材くん》としてジブリに雇われたような現象が。ふたたび現れたのです。
 おそらく鈴木敏夫プロデューサーに見出される形でこの論考は「熱風」での連載につながったと思うのです。
 二十数年を経て、二度とも《無名のままに・採用された》。
 しかもその論考は《何とも奇妙に・新しい》ものだった。
 自画自賛でなく、《まったく新たな・視座を持った》アニメ論の登場です。
 それが「アニメの「てにをは」事始め」なのでした。
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 こうやって経緯を説明しただけで、いかにこの石曽根正勝と言う人間がジブリなり宮崎駿なりと、幾重にも《ねじれた》状態で接続しているかがお分かりになるでしょうか。
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 ジブリ宮崎駿に関心のないままジブリに雇われて、将来の演出家候補として雇われた《ねじれた》現象がひとつ。
 もうひとつに、誰も想像しなかった形でジブリなり宮崎駿を切ってとったアニメ論がジブリの雑誌に採用されてしまった《もうひとつのねじれ》。
 その幾重にも《ねじれた》関係には、ジブリなり宮崎駿なりへの《敬意》が一切混ざっていません。
 ひと言で言えば《不遜》と言っていいでしょう。
 しかし別に傲慢であろうとして、わたし・石曽根は振舞ってはいるわけではないのです。
 わたしは《ジブリなり/宮崎駿なりに》相対的に自由な形で振る舞い、論考を書いた結果、それが《ジブリなり/宮崎・鈴木》に認められてしまった。それだけのことです。そこには《ジブリなり/宮崎駿》なりへの遠慮会釈のない関係があるだけなのです。
 論考「アニメの「てにをは」事始め」の三分の二は宮崎駿論である。しかしその連載を通じて浮き彫りにされた《宮崎駿像》の特異なことよ。
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 そこでようやく、冒頭の「自己承認」に戻る。
 さてわたし・石曽根は、ジブリなり、宮崎駿なりに「自己承認」をしてもらったのでしょうか。
 まず25年前、ジブリに雇われるきっかけになった宮崎さんからのオファーは十二分に「自己承認」の甘味に包まれたであろう。
 その当時のわたしがアンチジブリな人間であろうと、宮崎駿という圧倒的な存在から認められた事実に自信は隠せない。
 しかも自分は「ジブリ宮崎駿、なにするものぞ」という気概がありあました。
 大人しく、従順に、首を垂れる形でジブリに入ったわけではないのでした。
 むしろ昂然と頭を高くあげてジブリの門をくぐったのでした。
 自分が特異な人間だと自覚してジブリに入社したのでした。

 それから25年。
 わたしは今度は論考という形でジブリ接触した。
 その論考では誰も描いたことのない《宮崎駿(作品)像》が提示されたと自負しています。
 25年前、「東小金井村塾」という場を介して、従来の形にない形でジブリに対した結果、ジブリに迎え入れられたように、いままた従来にない形で宮崎作品像を提示した結果、論考の価値が認められた。
 さてわたしは《ジブリなり/宮崎駿なり》に「自己承認」してもらったのだろうか?
 それは奇妙な「自己承認」でしょう。
 わたしはジブリなり/宮崎駿なりに「愛をこめて・承認を求めた」のではないのですから。
 むしろわたしがしたのは「批判的」にジブリなり/宮崎駿なりに接した結果「ねじれた」形で承認されたことになります。
 実際「承認」などわたしは求めてはいなかったのです。
 ジブリに雇われる可能性などつゆとも考えず、東小金井村塾で高畑勲と弁舌で闘った。
 そして、いままた、誰も思い描いたことのないジブリ作品像を提示した。
 そこには少なくとも「お追従」はないですね。
 高畑勲と弁舌で闘おうと、論考をジブリに寄稿しようと、それはいつだって《批判的に/挑戦的》だったのです。
 それが「承認」されてしまうという「皮肉」。
 それは《ジブリに・いいように巻き込まれる》ことを意味するかもしれない。
 実際ジブリに雇われた二年間はそんな煩悶と闘っていた。
 しかし二十五年を経てアニメの論考を書き上げたいま、そんな煩悶はありません。
 なにしろ二十五年間、ジブリに一切過程進捗など報告せず、孤独に(ときに稀有な出会いに助けられながらも)やはり孤独につむぎあげた論考だったのです。
 そうした《孤独》は、いざジブリの「熱風」に連載が決まったところで、孤独の苦みと成功の甘味で天秤にかけられても、釣り合いがとれず、ただ「自恃の念とともに・自負がある」だけです。
 《ジブリなり/宮崎駿なり》といくらよじれた関係であろうと、《特異に結びつけたという・自負》があるのでえす。
 それは手軽な「自己承認」とは別物でしょう。
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 わたしは確かに論考を携えてジブリへ赴き、宮崎さんや鈴木さんにそれを渡したとき、「認めてもらおうとする願望」はありました。
 しかしその「承認」は《わたしがジブリに呑み込まれる》ような´《同一化への願望》ではありませんでした。
 《わたし~/論考/~ジブリ》といった形で、「論考」を仲介にして「ねじれ」を含んだ「承認」がジブリから与えられたと思うのです。
 そしてそれは、《誰とも似ていない》と自負の念で語れる《独異な関係》なのでした。
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 オリジナルに/独異な関係において為された「自己承認」。
 それはときに、「承認先」の担保すらいらないほどに特異なものになるでしょう。
 実際、宮崎駿にせよ鈴木敏夫にせよ、わたしの論考が「熱風」に掲載されていることなど、もう忘れているでしょう。
 しかしそれがどうだというのでしょう。
 わたしは《誰にも似つかぬ形で・宮崎駿を切った》のだ。
 それはもう「承認願望」ではなかったと、いまここまで書いてきて気づきます。
 ジブリ側にどんな思惑があったにせよ、《あの論考》は多くの者の手にわたろうとしている。
 それは《宮崎駿の像をかたどった爆弾》なのだ。
 その「独異」さがわたしを慰めている。
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 誰かに似るでなく、わたしの「独異さ」が認められる。
 それこそが至上の「承認願望」なのかも知れない。
 それでいて「願望」などもっていない。
 「独異さ」が「独異さ」のままに思いがけず認められてしまうこと。
 さらにわたしは自分の「独異さ」を駆使して、宮崎駿の「独異さ」をあぶりだした。
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 《自己承認》とはひとさまざまだと思う。
 ただわたしは《独異さ》をめぐって、ひとり闘うことが《自らを・慰めている》そういうことなのだろうか。
(おわり)