gと烙印(@アニメてにをは)

ジブリにまつわる回想、考察を書いていきます。

gと烙印:第2話~語り直し(オリジナル全長版)

【この文章は十数年前、ごく仲間内に見せるために書きかけた「gと烙印」の、もうひとつの書き出し。でもその計画は未完になりました。というのも、ここまで書いた時点で僕はその仲間内である大学院から追放されてしまったからです。
【ブログでの書き出しとは、随分文章の調子が違います。比較の意味合いも兼ねつつ、こういった長々とした前置きがなくては書けない独自な表現も含まれるので、語り直しの意味も含めて、これもまた新たな「gと烙印」の一節とします。

 ★「g」と烙印(a)ー語り難い物語
 自省的ともナルシスティックとも言えようが、自分の生きる行程をひとつの未完の物語として考えるようになったのはいつからのことか、それは随分昔からのことのように思っていたが、いま改めて己に問い尋ねてみると、それはまさに自分の人生が物語として記述しがたい局面において始まったのだと気づいて、動揺する。

  つまり、もはや物語として記述しがたい生の段階に至って自分は、物語として人生を見ようと欲望し始めたのだ。

 しかしそれも今だからそう言えることであって、あの当時、僕はまだ自分が直面している状況を物語として記述できると思っていたのだ。それも一編の異様な小説として。

 それは言い換えれば、自分の人生に一編の小説のネタになる体験が現れた、とそのとき思いえたわけなのだが、その後、その時々の対処せねばならない些事にとらわれている間に、その体験はいつの間にか、記述し難いものになっていることに気づいた、という言い方が正確なのだろう。

 ただし、あの頃思いついた小説としてのプランは、いまだに「あり」だと思っている。それはつまり、あの体験が小説という形を借りれば「ある側面では」記述可能だ思っているのだ。

 にも関わらず、あの体験をどう記述していいか分からない、という気持も本当なのだ。

それは記述可能か不可能か?

 いや、そういう問いの立て方は僕の場合間違っている。むしろこういう風に説明すべきだろう。

 あの頃「渦中にいる」体験を「全面的に」記述できると思った。その同じ体験が、その後「渦中ではなくなった」身分での体験を重ねることで、別の彩りを付け加えていった。そのときその「別の彩り」が、その体験を「もはや記述しがたいものにしてしまった」のだ。

(もちろん、「別の彩り」の潜在態は、「渦中」にあってすら存在したのだ。だが、僕は渦中にあっては「それ」を見くびっていた節がある)

 いったい、この抽象的な物言いは何だ、と思われるかも知れない。本題はいつ始まるのか?
 そういう声が聞こえてきそうである。
 その非難に対してはこう答える。
 このような一見迂回にも思える物言い(行程)が必要なほど、これから語ることを「全体」的に示すことは困難なのだ。
 しかも僕がこれから書こうと目指していることは、「渦中」で構想していた小説すら御破算にして、さらにその構想を、その後の「語りがたさ」とともに示そうという難題を、自らに課そうとしているゆえの、必要な助走なのだ。

 「構想」だろうが「小説」だろうがもったいぶるな、お前の「個人的な拘りに過ぎぬものにかかずりあうことは面倒だ」と思われる方は、どんどん飛ばして読んでいってかまいません。
 そのうち、「ある筋」に興味のある人には興味深い内容が現れてくるかもしれず、それとも最後まで現れないかもしれない。

 どちらにせよ、僕はそのようなスキャンダラスな読み方をしてもらうためにこれを書いているのではない。

 ここで為されようとするのは、「語りがたい」ものであったはずのものをいかに語るか、という一つの挑戦なのだ。その結果がどのようなものになるか、それだけは僕にも予想がつかないのだが。

★「g」と烙印(b)-病的試行

 いや、書き方を改めた方がいいかもしれない。こう語れば、僕はあと、何が語れようか。
 僕はジブリで働いていた。
 あの、日本中で知らぬ者がいないかのような、日本を代表するかのような存在。そこで僕は働いた。
 しかも、やはりいまや日本中誰も知らない者がいないかのような存在、宮崎駿という男が、僕を目の前にして「お前は才能がある。だからジブリに入れ」と言ったので、僕はジブリで働くことになったのだ。

 こう書き始めてしまうことは、実は僕にとって枷になるだろうという予感はある。
 こういう書き方では、これから始まる迂回のような記述がさらなる迂回を呼び込むということが予感される。
 しかしこれを最初に書くのは端的に、興味本位の人にさっさと去ってもらうためだ。
 今回で去ってもらうよう、幾分傲慢とも自己顕示的とも誤解されようが、以下のことをまず書いてしまおう。実際のところ、多くの人は以下の事情も知らぬまま興味を充たして去ってくれたのだけれど。

  僕がジブリに雇われるきっかけになったのは、雇われる一年前、ジブリがアニメ演出家志望の若者を対象にして募ったアニメ演出塾「東小金井村塾」に応募して合格したからだ。
 塾長兼講師は高畑勲。塾生は十数名だった。
 毎週土曜日にジブリの会議室で開かれる講義の内容は、始めのうちは確かに基本的なアニメの仕組み、技法などだったが、その内に(演出を志すものは、その技術的な熟知度は現場で学べばよろしい、むしろ演出家としての思想を鍛えるのだ、とばかりに)アニメに限らぬ映画全般に関する討論が主になった。

  しかし討論という言うよりも、それはほとんど僕と高畑氏の独壇場だった、と回想するのは主観的な思い込みだけではないと思うのだが、この断言に他の塾生はどう思うだろうか。

 僕はちょうど大学四年生で、五月に教育実習でかなり好き放題のことをやった結果、実習の二週間の間に「その場の問題を即座に理解し、考えたことを即座に言語化する」能力を異常に高めてその塾に帰ってきた。
 実習から戻った後の僕は、高畑氏の提示する議題に対し、立て板に水のごとく氏に噛み付いていった。
 ここでもう一つ重要な要素がある。僕がここまで果敢に議論し、他の塾生から一頭地抜けてしまったのは、僕の頭脳の出来の良さではなかった、と今でも思う。他の塾生と僕とは何が決定的に違ったのか。 それは僕がジブリという存在に何らオーラを感じていなかったことに尽きる。
 十代の頃はいっぱしのジブリフリーク、ジブリ崇拝者でもあった僕が何故そこまで変ったか。
 それは大学の四年間膨大な映画を観まくった結果、ジブリ作品より全然すごい映画などゴマンとあることを思い知ったからだ。そんな僕が東小金井村塾に入ったのは、単に昔崇拝していた存在に対して今の自分に何が言えるか、という度胸試し以外の何ものでもなかった。
 だから、他の塾生のごとくジブリやら高畑勲やらに威圧感を感じることもなく、純粋に議論のしがいがある相手(その点、頑固な高畑氏は議論のしがいのある人物だった)と立ち向かうことを楽しんだのだった。

  日本アニメ界では一番の理論家として知られる高畑氏に、全然臆せず物申す若造がいる、という噂がジブリに広まるのはそう時間がかからなかったようだ。
 プロデューサーの鈴木敏夫が臨時講師に現れたときも、後で知ったのだが、僕という存在を観察するためだけに来たのだという。
 塾も開校から一年が過ぎようとし、僕も大学院進学が決まった晩冬のころ、下宿に一本の留守電が入っていた。
 「あー、ジブリの宮崎ですけど、電話ください」。で、電話してジブリに呼び出され、宮崎駿に初対面し言われた言葉が冒頭の内容である。
 そのとき僕は自分の人生が変な方向に転がろうとしていることを感じ取り、それを「面白い」と思い、大学院進学を蹴ってジブリに入社した。入社試験も何もなし、顔パスである。何しろ僕は、天下の宮崎駿に「懇願」されて、「仕方なく」ジブリに「入社してやった」のだから!
 そのようにして僕はジブリの「未来の演出候補」として演出助手という身分で入社し、「もののけ姫」で一年間、「となりの山田くん」の準備で一年間、合計二年間ちょっと働いて退社した。

 というわけである。
 そしてその二年間の間に、僕は初めて「言語化しがたい体験」をし、有頂天だった入社の時から一転して、僕は挫折としか言いようのない状態でジブリから逃げ出した。周りの人は誰も、僕が挫折して退社したと言っても信じなかっただろうが。
 僕はこれからその(主観的な)「挫折」をめぐって何とか言葉にしようと思うのだが、そこでスキャンダラスだったりジャーナリスティックだったりする「ジブリの実態!」を詳らかにするつもりはない。
 なのでこれから、いよいよ本領となる記述は「病的」な「試行」となるはずなので、そこに何らかの「誠実さ」を読み辿ろうとする人だけが何とか読み進められるようなものになるはずである。(この項、おわり)