gと烙印(@アニメてにをは)

ジブリにまつわる回想、考察を書いていきます。

【質問箱】RE~その8(第70問目)で終わりです

最後の70問目だけ、異常に長い回答になってしまったので、この質疑だけで項目「その8」にします。
このだらだらと、終わりの見えない、迷路のような文章が、ぼくのブログ記事の特徴です。
なんとか辛抱して読んでみての感想をお聞かせ願えたら、幸いです。

 

★質問70
宮崎さんに対して、どういった感情を当時と現在と、思っていらっしゃいますか?

■回答70
これは意外と考えてこなかった問いですね。
今回一番驚かされた質問です。

わたしが宮崎さんの口から、「お前には才能がある。だからジブリに来るんだ!」とラブコールをもらったとき、うれしさがなかったわけではないですね。

ぼくも中学生、高校生のころ、いっぱしのジブリファンでした。
みなさんがジブリや宮崎さんに憧れを抱く気持ちはわかります。

でも、ぼくは大学生のときに一度、「ジブリ的なもの」を切り捨てたんですよね。
この世にありとある映画のなかにあって、ジブリは「one of them」に過ぎないと。
それは強がりではなく、本気で思っていました。学生時代に膨大な数の映画を見続けて、自然と訪れた感慨ですね。

だから「東小金井村塾」で高畑勲さんと言葉を交わすことが出来ると知ったときは、憧れなど全然なくて、対等で議論したい、と思ったのです。

その結果、噂を聞いて宮崎さんが感心してしまった。
宮崎さんにとって、どこか頭があがらない存在だった高畑さんだというのに、その存在に臆することなく議論をして、それなりに勝ちを納めている石曽根という若造は、ある意味で驚きだったんでしょうね。
少なくとも、憧れだけで近づいてくる崇拝者とは違った。

だからぼくも、ジブリ入社の誘いを受けて、喜び勇んで、というより、なんだか変なこと・面白いことが始まったぞと。

そういう経緯は楽に書けるんです。
でも、そのときぼくはどんな気持ちで宮崎さんと対面していたのか?となると、いま・うまく表現できないことに気づくのです。

うまくまだ言葉に出来ないでいるのですが、仕方なく・とりあえず《仮説として》言うと、
《判断停止していた》のではないのかな?と思います。
《かつての憧れだった宮崎さんに・ぼくは認められた》と高揚しつつ、《しかし、あれほど否定してきたジブリじゃないのか?ここで懐柔されるのか、お前は?》。
そんな相反する感情のせめぎあいの中で、ひとまず《判断停止して・中立的》な態度で乗り切ってみた、ということなのでしょうか。
あくまで現時点での《仮説》です。
誇らしく思いたい気持ちを必死で押しとどめたのは確かですね。

それに比べれば、いざ働き始めてみれば、宮崎さんはただ「上司として」仕えればいいだけだったので、心境としては楽でしたね。
ぼくも意外に素直に、新人として仕事に励んでいましたしね。
でもたまに宮崎さんに《意見》を求められれば、厳しく率直な意見を、正直背中で冷や汗かきながらも、あえて言って、その答えを聞いた宮崎さんや周囲のメインスタッフが凍りつくという場面が何度もありました。
でもそこまで《言いなり》になってしまったら、ぼくが雇われた《アンチ・ジブリ》である意味はなくなると思って、強がってましたね。
宮崎さんもそれはだんだん呑み込めてきて、『もののけ姫』の終盤になると、絵コンテの進展で迷ってメインスタッフには意見を聞いても、ぼくには振らなくなりましたね。面倒くさいやつ、というより、こいつに意見を求めたら、絵コンテが頓挫しかねないと恐れていたのだと思います。

こんなに長くなってしまい、すみません。
でも、まだ終わりません。

これまでの質疑応答で説明したことですが、演出助手の上司の陰湿ないじめや嫌がらせがその間も続いていたんですが、もう耐えられない、という理由でスタジオを辞めたのではないんですね。
それよりも、このまま『となりの山田くん』の制作に本格的に突入したら、演出助手のチームワークがぎくしゃくしてしまって、業務の阻害を招くだろうなと思って、ここは「’身を引こう」と思ったんです。
ぼくがいなくなったら、他の部署から演出助手が補充されるだろうし、その方が『となりの山田くん』の制作もスムーズに進むだろうし。
となりの山田くん』の企画準備が進んでいる間に、そのひとは周到な根回しを裏でしていて、気づいたときは、制作に突入すればぼくだけが業務上・孤立するようにそのひとはお膳立てしてあったんですね。うわっつらの「愛想のよさ」を活かして、そういう姑息な準備を整えて、ぼくを困らせようとしていたんですね。
ぼくを業務の「生き地獄」にさらそうとしているんだなと気づきましたね。
でも、ぼくは自分がスタジオにいられるかどうか、そんなことはどうでもよくて、ただ、こんな環境を姑息に仕立てる上司の下で仕事してても、仕事自体をまともに覚えられないなと思っただけで、じゃあ、この現場にいても意味ないじゃんって割り切ってしまったんですよね。
そんな意味のない制作現場にいても辛いし・不毛なだけで、仕事覚えられないように仕組まれているんなら、じゃ、別のスタジオに移って、まともな神経持っている上司と仕事した方がいいなと思ったんです。

それで別のスタジオに行くか、それとも大学院に進学して勉強するかの天秤をかけることになった経緯は省略します。
簡単にまとめれば、まず大学院の入試を受けてみて、受かったらどうするかそのとき考えようと。
入試に落ちたら落ちたで、そのときは別のスタジオへ行く道を模索しようと。
実際『もののけ姫』の製作が終わるころ、二、三人のフリーランスのスタッフがぼくのことを好意をもってくれていて、また何かあったら一緒に仕事しようよと声かけてくれていたので、そのひと頼ればどうにかなるだろうしなと。

いよいよスタジオを辞めることをメインスタッフに告げても、上司の演助や制作進行はしらじらとして聞いてましたね。
正直、いなくなってくれてひと安心、と思っていたひともいたと思います。
高畑さんも基本的には非情なひとですから、どうでもいい、って感じでしたね。ああ、そうですか、って。
むしろその外縁のスタッフたちの方が残念がってくれましたね。

こんな話、なんで延々としたかと言うと、宮崎さんの反応を書く上での前フリなんです。

いま現場は高畑さんの作品(『山田くん』)をつくっているところなので、宮崎さんは高畑さんに遠慮して、スタジオには来ないで近所のアトリエで仕事をしていました。
だから宮崎さんがふらっとスタジオに現れたときは、報告するなら今しかないと思って、駆け寄るようにして、ただ言ったんです。
「ぼく、ジブリ辞めて、大学院を受験します」
そう言ったら、宮崎さんは、困ったような顔を隠すように、無理に豪快な笑顔をつくって、
「そうか。お前は《そっち》に行くのか!」
そう言って、ガハハと笑って、行ってしまいました。
すごく正直。照れつつ。恥じらいつつ。そして残念そうだった。
ごめんなさい、って、心から思いました。期待に沿えず、ごめんなさいって。

ジブリを辞めてからは、ぼくはスタジオジブリにたまに・数年に一度顔を出す「その他大勢」みたいな感じになりました。
ただ、大学院に進んでから数年して、新しく入学した後輩の院生がアニメ研究を専門にするひとだったんです。
困ったなあと思っていたところへ、いよいよそのひとがゼミ発表をするということになったんです。
当時研究室では、ジブリの話題をぼくに振ることは公然とタブーになっていたのですが、そのひとはおそるおそるという感じで、どうかぼくのゼミ発表に来てくださいとお願いされたので、仕方なく行きました。
その当時、ぼくはアニメそのものが大嫌いになっていたので、ジブリを辞めて以来ほとんどアニメを観ていなかったのです。
唯一、『千と千尋』ロードショーのとき「東小金井村塾」の仲間と一緒に観に行って、突っ込みどころ満載な出来だなと思って、帰りに寄った喫茶店でさんざん悪口を仲間の前で言ってました。でも、そのときはそれだけで終わっていました。

でも、その院生のゼミ発表のとき参考上映ということで、宮崎さんの作品を上映したときです。最初に上映されたのが『もののけ姫』の1シーンだったんです。
あのとき、一体何が起きたんだろう?
すべてが《視えて》しまう、と思ったのです。
その瞬間映し出される画面がどんな(複数の)素材で
・どんな風に出来ているかが、瞬時に《視て》とれて、すべての効果がわかったのです。

わかりやすさを優先して説明してしまうなら、まずはジブリで経験した「ラッシュフィルム」のことを説明した方がいいですね。
アニメーションをいちから作っていって、ぼくは演出助手として、すべての工程で、毎回毎回素材の仕上がりをチェックする作業をしていって、その積み重ねの上で最終的に、その成果が現れるのが「ラッシュフィルム」上映なんです。ここで究極的に・その素材の完成度が試される、それが「ラッシュフィルム」上映なんです。
以前もこの話を聞いたひともいるだろうし、アニメの専門家なら当然知っていることだと思いますが、いま初めて「ラッシュ」という作業を知ろうとする読者のひともいると思いますので、繰り返しになりますが、書きます。

ラッシュ(フィルム)とは、映画本編でのカットの順番とは関係なく、制作の進行の過程で、撮影まで終わってフィルムになって仕上がったカットから順に、本編での順番とは関係なく、そのつど一本の短いフィルムとしてつないで、スタッフたちにだけ見せるために上映する暫定的なフィルムが「ラッシュ」と言います。
そんなラッシュフィルムを、ジブリでは・『もののけ姫』のとき、毎週金曜日の午前中に、一階ダイニングルームに上映機を持ってきて、窓に暗幕を引いてスタッフ全員がそろって上映に立ち会ったのです。
上映する意味はただひとつ。ミスがないか、それだけを見つけるために、最低二回は上映されます。
出来上がったばかりのカットを、順番関係なくつないで上映されるのです。
その上映を観ながら、作画なら作画、背景なら背景、仕上げなら仕上げ、撮影なら撮影が、それぞれの部門で専門的なミスがないかを集中して、視るのです。
そのなかで、縦割り的に・部門ごとに見るのを・横断して見ている存在は(少なくとも)ふたりいました。
それは監督と演出助手です。
監督は総合的な責任を負うのだから当然です。
そして演出助手は、部署間を調整し、部署間の素材同士の整合性をつねに気をつけて日々の作業をしているわけですから、必然的に総合的な視線でそれらラッシュフィルムを視るのです。

ぼくはただの新米の・ぺーぺーの演出助手でしかなかった。
でもぼくは、非力ながら、自分にだって気づけることはあるはずだと思って、全神経を集中して画面を凝視していました。
いや、凝視ではないですね。カットが切り替わるごとに、どんなカットが始まるか視た瞬間に、そのカットがそれまでどんな工程を経て、どんなことに気をつけてチェックしてきたか、そのひとつひとつの注意すべきポイントをざっと頭によみがえらせて、投影されているほんの短い瞬間に、画面を隈なく、何十箇所にわたって画面を瞬間的に《視る》。

それはとてもいい訓練になりました。
自分は《視た》のだろうか、その答え合わせはすぐに、宮崎さんと各部署の責任者の間の話し合い・意見交換で明らかになりました。そういう答え合わせを、話し合いを聞きながら確認し、自分ひとりで次はこうしようとか対策を練って次回のラッシュ上映会に臨んだのでした。
そうやって毎週毎週、視る精度をあげようと、ラッシュフィルムが始まると、ぎっと目に力が入りました。
それはもう、ぼくにとって、スタジオで働くあいだに、《デフォルト》になった視線でした。

しかしラッシュフィルムを視るときに発動したこの視線が、ジブリを辞めたあとも生きていたことを教えてくれたのは、大学院でのあのゼミに参加したときに立ち会った参考上映だったのでした。
あの上映会がなかったら、ぼくの学問的関心はまったく違うことへと赴き、まったく違う道へと進んでいたと思います。
けれどあのゼミでぼくの《開眼》してしまったのでした。
そしてその本領がはじめて発揮されたときでもありまいた。
つまりそれは、無数のポイントを即座に見分ける《現場の目》でありつつ、大学院で鍛えていった《分析・分類する目》がそれに添えられていたのです。
いま簡単に振り返って、こうまとめて書くことはたやすいことです。
でも、この《視線が・発動》したのは20年も前のことであり、それが《アニメ表現論》として《一度目の完成》に至ったのは数年前のことだ。
その間には十数年にわたる《沈黙・模索》の時間が必要だったのです。これは本当にしんどかった。
さほど才能に恵まれていなかったわたしは、案内してくれるひと・助言してくれるひとがほとんどおらず、むしろぼくの視線を軽んじ・否定するひとに巡り合うばかりで、十数年の時間でたった二、三人の理解者の巡り合いだけを信じて耐え続けてきたのでした。

嫌いになってしまったはずのアニメを、しかし、あのゼミで経験してしまった決定的な《違和感》にとことんまで・こだわった結果、いまだにアニメが好きになれないというのに、使命感だけでやってきたのが自称《アニメ表現論》の、十数年かかった立ち上がりなのでした。

皮肉なことだけれど、アニメの・なかなか解けないこの《謎》のためにぼくはずるずるとアニメに《分析的に・研究として》関わりを持つ羽目になったのでした。
ジブリを辞めてからも、定期的にスタジオを訪れたのは、まだ完成途上のアニメ論の、その途中報告を届けに行くためでした。数年に一度の頻度でぼくは何らかの中途報告が出来上がるとスタジオ訪問を繰り返しました。
宮崎さんにもその途中経過をその都度渡しました。そのたびに宮崎さんはなぜか歓待してくれ、アトリエのキッチンで手ずからコーヒーを淹れてくれ、いつもそうなるのだが、ぼくの近況報告を聞いているはずだったのに、いつの間にか宮崎さんの熱弁を一方的に聞かされるのでした。

ここまで書いてきて、ようやく質問の趣旨に戻ろう。
《宮崎さんに現在、どんな感情を持っているか?そして、それは過去のそれと、どう違いますか?》

ここまでくどくどと説明してきたので何となく納得してもらえると思うのですが、ぼくの・宮崎さんに対する感情は、フィギュアスケートになぞられば、何回転・ひねりをしているか、わからないほどに・もつれているのです。
だから、宮崎さんといま対峙する自分の姿勢を、正確に説明するにはその《もつれ》を丁寧にほどかないといけないわけです。
そして、この《もつれ具合の・重症度》にいまさら気づいたぼくは、その《もつれ》をほどくことすら・ためらわれるほど、その重症度に途方にくれているのです。それぐらいは読んでいるひとにも伝わっているかなと思うのですが。

ここまで延々と書いてきて、ひとつだけは、確かに言えることはある、とは思います。
ぼくは、誰も見たことのない・宮崎アニメの姿を知ったのだということ。
その新たな宮崎アニメの姿は、雑誌『熱風』での一年間の連載で、おおよそのことを描けたと思うのです。
宣伝。ぼくのアニメ論の連載は2021年4月号から2022年3月号に掲載されています。メルカリでうまく探せば3000円ほどで手に入るはず。あるいは公立図書館で『熱風』を収蔵しているところが近所にないか調べてみてもみるのも有効な策です。

しかし『熱風』連載の反響はほとんどありませんでした。
だから今回、画像投稿がバズったとき、これを利用してどんどん資料を投稿してフォロワーを増やそうとしたのも、ぼくのアニメ論を世に知らしめるための《方便》でした。
結果、ジブリの給与明細公開という《汚名》とひきかえに多くのユーザーにフォローしてもらえました。
それをどう有効に・誠実に活用するかは、今回の質問箱をはじめ、ひとつひとつのぼくの活動がどんな風にみなさんが判断するか、厳しいジャッジに委ねられているのだと思います。

この質問箱を書き直している最中に、【アニメてにをは・基礎講座その1】は遂にアクセス1万回突破を成し遂げています。
【アニメてにをは】はじめての、万単位のアクセスです。
数を競い・誇ることに、どれほど価値があるか疑問です。
9,995アクセスと10,000アクセスは、5アクセス違うだけなのに、桁が違うことで一喜一憂するのはどうかとは思います。
本当に興味を持って【アニメてにをは】を読んでくれているひとは1,000人前後だと思います。

それはさておき、ジブリを辞めてもスタジオを訪れ、宮崎さんに挨拶にいくのを数年おきに繰り返しているのも、不本意というか・事故に遭遇しているように始めたアニメ論の進捗をその都度、宮崎さんやお世話になったスタッフの方に報告したかったからです。
アニメ研究を進めていなかったら、とうにスタジオを訪れることはなくなっていたでしょう。第一、訪れる理由がありませんからね、それ以外に。
でも相手をしてくれたスタッフや宮崎さんは、ぼくの真意を図りかねていたと思います。
でも『熱風』の連載を終わってみて、ぼくを出迎えるスタッフや宮崎さんはどう変化しているのか?

そうですね。ぼくはいつだって、宮崎さんとは《挑戦的》にしか接することが出来なかったのですね。その対面の初めから。自分を試すようにしてしか、宮崎さんに対し得ない。
スタジオで働いた当時の上司部下の関係であれ、スタジオを辞めてからの不思議に寛大に出迎えてくれる宮崎さんであれ、ぼくはぼくで、その心持ちや心境の温度差・暖かみの変化はあれど、最初から最後まで、宮崎さんとは《対決/対峙するように・自分を試すように》しか、宮崎さんと顔を合わすことが出来ないのです。

ぼくはそもそもジブリの想像力の《埒外》として評価されて、スタジオに降り立ったのでした。
でも、働いていく過程で自分が《埒外なり、アンチなり》である看板を下ろして、スタジオの空気・雰囲気に溶け込んでしまってもよかったのでした。
あるいはジブリを辞めてからも、甘えるようにスタジオを訪れてもよかったのかもしれません。
でもぼくにはそれが出来ないのです。いま過去を総括しても、その心境を《解除》することが出来ません。
ぼくのアニメ論、ジブリアニメの見方論は、もしかしたら、ジブリ作品を観る見方の「one of them」になるかもしれません。そうなれば、その見方は《ジブリ埒外》ではなく《ジブリの想定内》になるでしょう。
だからぼくは気が早く、いま、もっと想定外の《埒外》へと向かって、アニメの見え方を探り始めています。
ぼくはもともとの性分なのか、宮崎さんに奇妙な形で見出されてしまったからなのでしょうか、わからないのですが、《埒外の可能性》にしか興味がないのです。
みんなと歩調を合わせる。「それ、わかる」、そう承認し合うことは大事ですし、ぼくもそんなことを日々積み重ねています。
でも、ぼくの本領は《埒外の可能性》を開拓することだと思っています。
別に宮崎さんに恩を感じているわけでもないですが、常に宮崎アニメなりジブリアニメなり、アニメ全般なりに《埒外の可能性》を掘り進め、未開の地平を開くときこそ、もしかしたら宮崎さんを一番近しく感じているときはないかもしれません。
だって、そうでしょう?誰も見つけていない宮崎アニメの魅力を独自で発見していたら、ジブリファンならみんな鼻高々になりませんか?

 

★終わりです
ぴったり70問だったのですね。
ゴミ箱に捨てた(回答を避けたのは)1問だけ。
いま考えると、あれも答えてみればよかった。

70問目の異常な長さ。
迂回が迂回を呼びつつ、その道程で意外に重要な情報がまぎれこんでいます。
ぼくはこういう書き方をすると「ブログらしいものが書けた!」ってうれしくなってしまうのですが、みなさんはどうでしょう?
ブログのコメントなり、ツイッターでのコメントなりで、感想、ご批判、提案など教えてくだされば、後学の参考にしたいと思います。
最後までお付き合い、ありがとうございました。

 

 

(この項、おわり)

 

(最初から読み返したい方はこちら)

animeteniwoha.hatenablog.com