gと烙印(@アニメてにをは)

ジブリにまつわる回想、考察を書いていきます。

【ネットの記事、採録しておきますね】

ぼくのツイッターアカウントが急浮上したのに目をつけた記者が書いた文章を、記録として採録しておきます。
 ◆
この記事の発表が6月6日(月)となっている。
ジブリ関連の資料を公開して、急激な形でアカウントに動きが走ったのが5月28日(土)だった。
それから一週間ほどしてこの記事のために電話インタビューを受けた。
この記事が出て2日間経った時点ですっと炎上が収まった。
白けた、といった感じの反応が、体感としてぼくに伝わった。
それがこの記事の(記者本人の意思と反して)果たした役割だと思う。

 ★ ★ ★

記事の見出し↓
ジブリですらこんなに過酷なのか…1997年当時「新人2年目の給与明細」にネット騒然 公表した元演出助手の思い】

文筆家の石曽根正勝さんが5月28日、Twitterスタジオジブリの給与明細を公開し、現在まで約5000件のリツイートを集めて話題を呼んでいる。本人に電話で直接話をきくことができた。

「これはさすがにジブリから苦情がくるかもしれません。1997年当時、ジブリで新人2年目のぼくの給与明細です。いまだにアニメ業界の給与の低さが問題になっているので、古い資料ですが、『ジブリではこうだった』という証言として、ここに掲載しておきます。」

公開された給与明細は1997(平成9)年6月分。当時、石曽根さんは入社2年目の新人演出助手だったという。その基本給は“16万円”--。

日本で知らぬものはないスタジオジブリの赤裸々な給与明細流出にネット上がざわついた。

「今やアニメは世界に愛される日本の文化なのに、これは酷い。これでは才能がある人達の夢がない」
「月収16万円の月あたり25日労働ということは…一日8時間労働とすると時給800円です。サービス残業が一日平均1時間26分以上ならば、1997年の東京都の最低賃金である679円を下回ります」
「97年当時の2年目社員としては一見妥当な額だが(中略)残業代が含まれていないとか、ベアはどうなのかとかいろいろ突っ込めそう」
「無償残業当たり前の時代かな?」
(給与明細の末尾の記載)「『ご苦労様でした明日からも頑張りましょう』が精神的にヤラれますね」

…やはり「あのジブリですらこんなに過酷なのか…」という反応が多い。

97年6月といえば、まさにジブリの名を不動のものとした超ヒット作『もののけ姫』が公開される1カ月前だ。同作は日本の歴代興行収入記録を更新。興行収入193億円!そのなか、演出助手さんの基本給は16万円!手取りが13万7932円!

衝撃の給与明細がバズって3日間。石曽根さんはこう語る。

■「ジブリから連絡はありません」

--なぜいま給与明細を公開?

昨年からTwitterをはじめて、アニメの批評や感想などを投稿していました。そのなかでジブリ社員時代の思い出もツイートしていたんです。そのツイートのひとつがバズり、「給与明細を出すなら今しかない」と思いましたね。

--バズらせようという狙いがあったわけですか。

ええ。アニメ業界で珍しいジブリの「アニメーターを社員として雇用する制度」は美しき「神話」として語り継がれています。でもその給与の実態は明らかになっていなかった。そこで厳正な数字で提示しようと。

--基本給の低さより、残業代が出ていないことを問題視する声も多いですね。

残業問題・見なし残業問題などなどジブリの過酷な労働環境のこともツイートしています。そういうツイートがバズった勢いで埋もれてしまうので、すこし困りましたね。よかったら探してみてください。

   ◇   ◇

宮崎駿さんからスタッフへの注意メモも流出。この手書き文字に見覚えがある人も多いのでは。

「こんなものも出てきた。宮崎さんがスタッフ(作画マン)に注意するためのメモ書き。セルを重ねることを想定しながら作画するべし、の仕組みを説いてくれています。」

--石曽根さんのツイートでは給与明細のほかにも宮崎監督直筆のメモなど、当時のジブリの記録がバンバン流出していますが、なぜ20年以上前のものをこんなに持っているんですか?

ジブリに勤めていた当時から、ジブリだけでなくアニメ業界全体の労働状況の過酷さは意識していました。

だから給与明細も、将来なにかのときに資料・証言として使うときがあると思って保存していたんですよ。問題提起するのに絶好のタイミングだと。

   ◇   ◇

たしかにアニメ業界の労働環境についてはたびたび問題視されるところだ。

2020年のアニメーションの市場規模は、2兆4261億円。対して、「アニメ制作」の市場規模は2510億8100万円だ。なかでも伸びているのは「元請け・グロス請け」と呼ばれる上流工程で、実際に絵を動かす制作専門スタジオに落ちるお金の総額は微減している状況だという。下の現場ほど苦しいのだ。※帝国データバンク「アニメ制作業界」動向調査(2021年8月)より

国内の制作会社に正社員は少なく、作品ごとに非正規雇用のスタッフが集まってプロジェクトが終了するまでチームとなる形態は建設業と似ている。見習いの数年間は仕事がきつく、安価であり、ある程度までスキルがつくと作画監督や演出を任されて収入が安定する点も職人に近い。

そのなかで、アニメーターを社員化することで評価が高かったのがジブリ。しかしそのリアルなお金の面が、石曽根さんの保存していた資料によって晒されたというわけだ。

「『ホーホケキョとなりの山田くん』の絵コンテも公表した。「あまり需要がない」とか言ってしまう石曽根さんだが、ジブリファンにとって超貴重な品だ。

--バズったあと、ジブリから連絡はありましたか?

何もないですよ、いまのところ。だって事実ですからね。もし何かあったら、こちらでも返答は用意していますけど。バスった初日が、一番怖かったかなー(笑)。

   ◇   ◇

ネット上での戦々恐々としたざわめきに比べて、石曽根さんはけっこう平然と答えてくれた。口調はおだやかだ。

実は石曽根さんは、ただの「昔ジブリではたらいていたおじさん」ではない。

ジブリのオフィシャル広報誌「熱風」に今年3月まで「連載」をしているのだ(「アニメてにをは事始め」)。なのにジブリに(もちろん無許可で)こんな爆弾を落とすとは…空気が読めないのか? 個人的に興味がわいてきた。

■もうひとつの“大バズ”

話をきいていくと、石曽根さんは給与明細を超える”大バズ”を持っている。それが「研修時代のセル画」だ。またまたどんな爆弾かと思えばーー。以下のような投稿で、リツイートは6400もされている。

「これは個人的な思い出。ジブリで新入社員は研修を終えると最後の課題、「料理のセル画をいちから作る」課題がありました。同期のみんなが豪勢な料理をセル画にしているなか、ぼくはわざと貧相な「卵がけご飯」のセル画を作りました。なかなかの自信作でした。さて、いかがでしょう? 」

投稿したのは『もののけ姫』制作がスタートした当時、新入社員が研修の一環として作った課題だという。

「給与明細」はこのセル画のバズに乗っかる形で投稿され、まんまとバズったわけだ。

「実に美味しそう。素朴な料理を描くと言うのは一番、難しいと思う」
「醤油の瓶に反射した卵がいいな」

…こちらには好意的なコメントが多く寄せられる。

また、さらに奇妙な現象が。

「良い絵なんだと思うけど…………そこに卵入れる人初めて見た。--え?どうなの?普通なの?」
「そこに玉子を入れたら、かき混ぜられないだろ……」
「マジすか…自分いつも納豆の方に卵入れてかき混ぜてました」

…「卵と納豆の位置正しいのか問題」が議論されはじめ、ほっこりしたやりとりがスレッドに並んでいる。給与明細と比べ、まさに「光と闇」だ。

■バズで伝えたかった”あの頃のジブリ

--バズった反響を見てどうですか?

ネットニュースでちょっととりあげられはじめているのは「給与明細」のほうですが、じつは「研修時代のセル画」のほうが反響が大きかった。「いいね」の数が5万も多いんですよ。

アニメ好き、ジブリ好きのひとの関心は、ジブリ批判よりも無名の新人の研修セル画に集まっていたんです。

私のアカウントはこの数日でフォロワーが5000人以上も増えましたが、よく言われる「炎上」ではないと思っています。悪意のあるリプがほとんどないからです。

--給与明細のほうも批判は少なかった?

はい。給与明細の件も、ジブリへの批判だけでなく、それぞれのひとが自分の給与の数字をあげてくれた。アニメ業界と関係なく、苦しい給与で働いている情報が今でも私のツイートのまわりで共有されて、問題提起としてまっとうな声がたくさん返ってきました。そういう意味では、私のバズは成功です。

ーーコメントを読んで、今も昔も日本の労働環境は厳しいと思いますか。

もちろんそう思いますよ。

でもひとつだけ言いたいのは、1997年当時、手取り13万ちょっとですが、東京でひとり暮らしをしていた私は、そんなに不自由はしていませんでした。

ジブリのスタジオはJR総武線東小金井駅にありますが、当時は隣の駅の武蔵境から徒歩15分の、家賃4万5千円のアパートに住んでいました。

最初は電車通勤だったのですが、退勤時間がどんどん遅くなったので給与とボーナスを使ってスクーターを購入して通勤していました。

仕事が忙しくなると昼や夕食時にスタジオを離れるわけにもいかず、昼と夜、店屋物を注文してメインスタッフと一緒に食べていたことも思い出します。毎食700~800円くらいだったかな。その出費も給与の中でやりくりできていました。

あと、ジブリは学歴関係なく、高卒・専門卒・大卒も全員同じ給与からスタートしています。わたしは大卒でしたが、割を食ったとは思わなかったですね(笑)。むしろ「すごく民主的なはからい」だと思って、清々しい気持ちだったことを覚えています。

   ◇   ◇

いま、石曽根さんはジブリのアニメをはじめ、多くの作品を独自の視点で1カットずつ細かく解説する「アニメのてにをは」と名付けたツイートを投稿している。

正直、相当アニメ好きでないとついていけないほど、めっちゃ細かい解説だ。

特にテレビでジブリアニメが放映される時期は必見。1作品で数百というとんでもない数のツイートが投稿されるので、覗いてみてはいかがだろうか。

たまにジブリの裏情報もつぶやいているようだし...。写真を見ると、給与明細もまだいっぱいあるようですし…!

(まいどなニュース/BROCKメディア・祢津 悠紀) 

 

元記事はこちら。

maidonanews.jp

gと烙印/村塾編~【2】面接

 ああ、あそこが名高い「水槽」と呼ばれる、プロデューサー専用の部屋だなと望は気づいた。
 野宮氏はガラスの扉を開けて中に声を掛けると、「水槽」の中で喋っていた二人の男性が話を中断して野宮氏を見た。望は遠くから、朴監督と鱸木プロデューサーだ、と認識した。野宮氏が声をかけると二人の視線は男性から望の方に向けられるのが分かった。鱸木さんは口を締まりなく開けて、銀縁の眼鏡越しに望を品定めするような目で見ている。一方の朴さんは机に肘をついて手のひらにあごを乗せ、つまらなそうに望を見ていた。ふたりとも、ちょっとお目にかかったことのない目つきだった。ああ、俺はこれからあのふたりに対峙するのだなと思うと、望は少しばかり残っていた不遜さも一気に掻き消えた。
 野宮氏は戻ってきて、望にダンディーに優しい声で言った。
「もう、いいそうです。あちらへどうぞ」
 あくまで善意の配慮なのだったが、望には心の準備すら与えられず進退きわまった。息がつまるような思いで野宮氏に黙礼すると「水槽」に向かって行った。バカバカしいと思いながら、礼儀のつもりで、向こうに丸見えのガラス扉をわざわざノックした。鱸木さんが伸び上がった姿勢で「どうぞ!」とよく通る声で言い、望はガラス扉を開けた。朴さんは冷酷に観察する目つきで望を見ていた。
「よろしくお願いします」望は言うと、あいている椅子が目の前に三つもあるので、どれに座ったらいいか分からず、もじもじして立っていた。
「好きなところに座って」
 近くから見ると、鱸木さんは向かいの椅子の上で、あぐらをかいて座っているのが望の印象に残った。望は迷っても仕方がないと投げやりな気持ちで真ん中の椅子を選んで座った。鱸木さんと朴さんに左右から均等に睨まれる形になった。
 切り口上は鱸木さんからの質問で始まった。望の経歴や大学でのサークル活動のことなど、提出した履歴書を確認しながら次々と質問してきた。甲高く脳に響くような声で、ぐいぐいとつんのめってくる口調が特徴的だった。望も急かされるような気持ちにさせられ、考える暇もなく、口からついて出るように急いで答えた。その間も朴さんはつまらなそうに望を見ているだけだった。
「きみは、この塾をステップにして、今後どうしたいの?」鱸木さんが聞く。
 望はちょっと返答に困った。朴さん相手にどれだけ勝負できるか試したいだけだ、などと正直に答えるのは、さすがにまずいと思った。
「演出家養成塾とは聞いて来ましたが、だからと言ってアニメの演出家になりたいかと言われると、まだそこまで気持ちは決めてはいません」
「あれ? きみ、アニメ、好きじゃないの?」呆れるような調子で鱸木さんが問う。
「それは、なんでも好きというわけじゃ、ないです」
「うちの映画は見てるの?」
「それは見てます」
「どうなの?」
「どうと言うと?」
「好きなの? 嫌いなの?」
 ずっと黙っていた朴さんが、突然鱸木さんの話をさえぎった。
「そんなこと、どうだっていいじゃないですか。そういう型通りの面接はもうやめましょう」
 鱸木さんがぴくっと体を動かすと、そのまま黙った。
 朴さんは手許にあった書類を手にとると、望に初めて質問をした。
「今回出してもらった感想文ですが、これ、何か参考にしたんですか?」
 鱸木さんの矢継ぎ早の質問攻勢から救われたと思ったら、朴さんの方はなぜか怒っているような口調である。
「いえ、まったく自分でいちから考えたものです」望は反射的に正直に答えた。言い逃れしても仕方ないと思ったのだ。
 朴さんは望をじろりと見つめたかと思うと、手許の書類に目を落とし、鼻息荒くため息をついて言った。
「これ、『ミツバチのささやき』ですね、この映画に出てくる風景、その消失点を少女の心象風景のリミットと捉える。これはなかなか独創的だと思います」
 ようやく望は、朴さんが手にしているのが自分の感想文の写しだと気づいた。自分の文章を、あの朴さんが実際に目を通したのだという驚きが、いまさらに望を貫いた。
 その新鮮な衝撃は、望の思念を流れるように突き動かした。望はつづけて言った。
「そう言われて思い出したのですが、言い訳になるかも知れませんが、この映画の風景が常に地平線を意識していると指摘しているのは、表層批評で知られる映画批評家のHさんでした」
「Hは私は認めないですね」朴さんは吐き捨てるように言った。その露骨な嫌悪の表情を見ながら、望はこの面接も終わったかなと思いながら、言うべきことは最後まで言ってしまおうと思った。
「風景の遠近法についてはHさんの指摘を借りています。でも、それを少女の心理とその世界観にからめて考えたのは自分の独創だと自負しています」
「なるほど」朴さんはついていた肘から顔を起こし、そのまま腕を組んだ。そのまましばらく中空を見ながら考え事していたように見えた。
 突然鱸木さんの方に顔を向けると、朴さんは破顔一笑して言った。
「来ましたね」
最前までの気難しさが嘘のような、喜びに満ちた笑顔だった。
「そうですね」鱸木さんはおもねるように微笑して答えるだけだった。同意しているようには見えなかった。半信半疑な様子で、望を困ったように見るだけだった。来た? なんのことだ? 望はふたりだけの会話の秘密に戸惑った。
「これを観てください」
 朴さんは急に真顔に戻ったかと思うと、テーブルにおかれていたリモコンを手にとった。この、瞬時にくるくると変貌する朴さんの態度をみて、ああこういう人なのだな、となぜか望は得心したような気持ちになった。朴さんは手にしたリモコンをサイドボードに置かれている小さなテレビデオに向けた。テレビがつき、ビデオテープが回り始めた。gでテレビデオなんか使っているのかと、望は何だか意外な気がした。テレビデオはテレビかビデオのどちらかの機能がおしゃかになると両方一気に使えなくなる。とても不経済で不可解な家電だ。そんなものがgにある。
 そう思っている間にビデオの画面が流れ始めた。土堤の下に立ち並ぶ長屋でひとびとが行き交っている。小津安二郎の『お早う』だろうか。しばらく三人でビデオを見ていたが、映画のストーリーの進展とは関係なく、朴さんは突然リモコンをとりあげてテレビを消した。
「いまの映像はどう思いますか」
 今度の朴さんは、試すというより純粋に好奇心で聞いているように聞こえた。無邪気、という言葉が望の頭をかすめる笑顔だった。
「どうか、というと?」
「なにが印象に残っていますか」
 朴さんは少し身を乗り出していた。望は、正直に答えるとまた面倒なことになりそうだと思ったが、朴さんの衒いを感じさせない率直さにうながされ、別にこれで終わってもいいやと思いながら答えた。
「土堤の上の人と土堤の下の人が、それぞれ違う動きをしていて面白いと思いました」
「そこですか」案の定、朴さんは不満そうな顔をして言った。「それもHの受け売りですか」
「いえ、いま見て何となく思ったことです」
 望はいつの間にか、もう緊張していなかった。開き直っているというのも違う、ただ率直であることでしかこのひとと取り引きできないと思っていた。駆け引きしても、この人には通用しないのはもうわかったていた。弁解のつもりでなく、この際言っておけることは言ってしまおうと、望は言い添えた。
「付け加えるなら、長屋の人物の出入りのさせ方がうまいと思いました。出入りによってストーリーが進展していく」
 朴さんは腕組みをすると苦々しい表情で望を見た。と、また突然に相好をくずし、苦々しさを残して笑みを浮かべ鱸木さんに言った。
「いよいよですね」
「そうみたいですね」鱸木さんがかしこまって言った。やはり鱸木さんは様子見という感じだった。
「?」二人の秘密の符牒の交換に望は戸惑いを感じた。
「それじゃ、もういいでしょう」朴さんは腕組みをほぐして、誰の気兼ねもないようにのびのびと両腕を伸ばし、誰に言うでもない様子で言った。もう望のことなど眼中にないようだった。ようやく鱸木さんは自分の役目が来たという感じで言った。
「望くん、君の面接はこれで終わりです。後のことは外にいる野宮くんに聞いてください」
 面接は十五分ほどで終わっていた。面接後半の朴さんが課してきた質問の追い上げは、いままで体験したことのない質の集中力へと望を追い込んでいた。しかしその追及も突然に終わったので望は心許なく立ち上がり、あいまいな感じで会釈して、ガラス張りの会議室を出た。鱸木さんは立ち上がって見送ってくれていたが、朴さんは手許の書類に目を通していて、望のことなどもう忘れているかのようだった。
 四日後、望の下宿に案内が届いた。望は塾生に選ばれた。塾の名称は、gの最寄り駅からとって「武蔵野横手塾」とあった。

 

(その3-1へつづく)

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gと烙印/村塾編~【1】応募

 その運命的な八百字を望【のぞむ】はどれほどの覚悟を秘めて書いたのか、今となっては不確かだ。
 大学三年の終わり、春休み、望は青梅の宿泊施設付の研修センターにいた。二段ベッドが並ぶ八人部屋の一室で仲間たちがとうに眠っているなか、もうすぐ朝があけそうな時間の中、望は机に向かって原稿の最終直しをしていた。手書きで原稿用紙のマス目を埋めていた。まだパソコンが普及せず、ワープロが主流の時代だった。八百字指定の短い原稿だったが、コンパクトに表現をまとめるのに苦労して、何度も書き直していた。望は青梅へ来るにあたって撮影機材を沢山携行しており、重く嵩張るワープロマシンまで持ってくる余裕はなかった。まだ手書きの原稿が珍しくない時代だった。
  ◆
 朝方、原稿にようやく見切りをつけた。封筒に入れて所番地を書き込み、そのまま部屋を出ると研修施設のつっかけでとぼとぼと敷地を出た。さほど遠くないところに郵便ポストが待っている。望は封筒をポストに入れた。念の為ポストの脇に記された回収時間を確認する。まあ大丈夫だろう。今日の消印がつくから、締切に間に合う扱いになるはずだ。
 望が書いていた原稿は、映画についての感想文だった。指定課題は「わたしの感動した映画」とあったが、「感動」という言葉に違和感をいだき、「わたしの印象に残った映画」と勝手にタイトルを変えて書き進めた。指定タイトルを変更して予選から落とすぐらいなら、落とすがいい。傲慢だったからではなく、それほど大した執着をその応募に感じていなかったのだ。
 実際望にはその原稿にさほど思い入れがなかった。ひとまず締切に間に合わせて出せたことに、ひと仕事終えたな、ぐらいの気分だった。そのときの望の念頭にあったのはむしろ、この青梅で連日続いている撮影のことだった。
  ◆
 望は気心の知れた仲間たちに協力をあおいで、この青梅の施設で四日間泊まり込みをして、八ミリフィルムの映画を撮っていた。
 大学生ふたりを主人公にし、この青梅の施設を大学寮に見立てた設定で撮影していた。この施設とその周辺で四日間撮影すれば映画の七割方の撮影が終わるよう、望は計算していた。望が監督の映画だった。
 この映画の制作のため望は三ヶ月昼夜ぶっ通しのホテルマンのバイトをして百万円ほど稼いだが、そのほぼすべてが機材やフィルム代であっけなく消えた。青梅の宿泊代は頼んだ仲間たちにそれぞれ自腹で来てもらっていた。その折り合いがつかず、降りた仲間もいた。それならそれでいい、と思った。ある程度の無理を聞いてくれる者でないと一緒に映画はつくれない。前作の頓挫した映画で望はそれを痛く学んだのだった。前作ではうるさく口を出して絶えず撮影を中断させる先輩の存在や、撮影が延び延びになって中途半端な段階で主役が降りたために、この作品の撮影は中止を余儀なくされた。だから今度こそは必ず完成させる。そのためには絶対服従するスタッフ・キャストが欠かせないと思った。そのための隔離するような青梅の合宿でもあった。撮影の始まったこの二日間、仲間たちの撮影中の段取りの悪さや指示の通りの悪さに対し望は暴君として振る舞った。率先して動き回り、思い通りになるまで粘り通した。望は表面に出さなかったが絶えず心細さと闘っていた。何の頼りもなく自分の意志を押し通すことに不安があった。暴君の頼りなさを、後に望はgで靄咲さんや朴さんの立ち振る舞いに見出すことになる。そんな不遜な感慨をいだくようになったのも、この無理な合宿撮影時の経験が陰画のように効いていたのだと思う。
  ◆
 青梅の合宿が終わり、残りの撮影を都下でぼちぼちと続けていた三月、通知が届いた。あの合宿の朝に投函した、映画感想文の返事が来たのだ。感想文は一次選考を通過、面接を行うのでいついつにgに来たるべし。
  ◆
 望が応募したのは、gで春から行われる、若手アニメ演出家養成塾だった。塾長はアニメ界随一の理論家・朴監督。その募集広告を新聞の片隅にみつけたのは偶然だった。もしこの応募が五年前、十年前だったなら自分はどんなに狂喜したことだろう。そんな仮定を考えつつ、望はしらじらした思いで、ひとまず記事は切り抜いておいた。望は十代の頃、熱心なgの崇拝者だった。中学、高校のあいだgの作品のポスターをいくつも部屋に貼っていた。あの波乱とドラマに満ちた世界がスクリーンの向こうに確かにあるというのに、自分の現実はなんと心寂しいものかとベッドに横たわりながらポスターをみつめ、いつまでも空想の世界を夢想していたものだった。
  ◆
 だが大学に入ってから映画サークルに属して、異質な映画文化に一気に呑み込まれた。サークルの仲間の教養に負けまいと、毎日映画館に通い、世界中の映画を古今を問わず浴びるように観た結果、望のなかのgの存在はいつのまにかずいぶんと小さいものに変わっていた。たった百年の歴史しか持たない映画が、花咲くように展開しきった多様な可能性を、存分に思い知った望にとって、gの提示する世界観が、なんだか他愛もないものに見えていた。
 また望は自分にしか作り得ない映画のヴィジョンもはぐくんでいて、それを実現しようと八ミリフィルムで映画の制作にとりかかっていた。デジタルカメラが普及するにはあと二、三年必要だった。だからそんなときにgのアニメ塾の応募を見つけて、これは自分が応募するべきものか、しばし考えてしまった。それほどに望のなかでgの存在はこの大学三年間の間に軽くなっていた。
 それでも望がgのアニメ塾に応募しようと思ったのは、塾長が靄咲さんではなく理論家の朴監督だったからだ。大学に入ってから四年目になるその間、自分が培ってきた映画についての思考が、アニメ界随一と言われる論客を相手に通用するか試してみたいと思った。そう気づくと募集要項は魅力的に見えてきた。朴監督を相手に自分の思考を試練にかけてみたい、それは全く不遜な動機であり、塾の応募者の多くが抱いただろうgへの敬意、憧れは、かけらもなかった。
 gにへつらうどころか、gに挑む。アンチgとしてgに乗り込む。その不埒さが望の人生を大きく変える出色の条件だった。
  ◆
 指定の日にgのある武蔵野横手駅を降りた。鄙びた駅前だった。面接案内状に同封されていた地図に沿って線路沿いを歩み進んでいくと、のどかな雰囲気で住宅地が続く。その住宅も途切れると畑がひろがり、乾いた砂が風に運ばれて望に吹きつけてきた。行く手に送電所が見えてきて道なりにゆるやかに左へ折れていく。左手に続いていた畑地に並ぶように花々がガラス張りの店内に咲き誇っていた。豪勢な花屋にみとれていると、その花屋の隣が、テレビで何度か見たことのあるgのスタジオだった。壁の白さが築年数とともにくすんでいて、ビルの表面全体を蔦がからんでいる。望は初めてスタジオの本物を見て、あったな、と思うばかりで、インパクトからすると隣りの花屋にはかなわないなと思った。隣りの花屋とのコントラストを活かして絵作りするカメラマンがいなかったのが不思議だった。遊び心に乏しいカメラマンにしか巡り合えなかったこのスタジオの不運を思いながら、望は玄関脇のチャイムを鳴らした。ぶっきらぼうな応答があったので面接に来ましたと答えると、入り口脇の部屋から短躯でがっしりとした、角刈りの男性が現れて、入り口のドアを開けてくれた。望が声を出そうとすると、短躯の男はそれを制して、
「はいはい、わかってるから。この階段を二階まであがって、野宮というひとに取り次いでもらいな」
 ひどくそっけなく、なぜかイライラした口調で男は言うと、事務所らしい部屋にひっこんでいった。初めての来訪者をこんな風に迎えるのがg流なのかと思いつつ、右手にひかえる階段をのぼっていった。短い階段は踊り場があって、その突き当りが会議室にでもなっているらしく「使用中」の札がかかっている。踊り場を回転して上へ向かっていくと、先程の男の素っ気ない扱いが作用していて、いやに心細くなっている自分を望は発見した。緊張していたんだ、といまさら望は思う。テレビの取材の様子を観たときはどこか熱を帯びて見えたあのスタジオだが、この冷ややかな階段はそこと同じ空間に接しているのかと疑わしいほど、いやにひっそりとしている。望まれざる客としてここに来ている心地になり、望はそうっと階段を昇り切った。
 二階のフロアに着くと正面と左手にふたつの扉があった。その角にコピー機が置いているだけで人気はない。しんとしている。正面にある入り口の向こうはパーティションで遮られていて、人の姿は見えない。一方の左手のドアの向こうには、机が並んでいてひとが仕事している背中が見えた。人恋しさに左手へ向かうことにした。
  ◆
「あのー」
 ドアを細く開けて顔をのぞかせてみたが、誰も気づいてくれる様子がないので、心細げに声を出してみた。
 こちらに背を向けていた若い女子社員がはっとして半身をこちらに向けて目を瞠っている。なにさまですか?と問いたげな、不審者とでくわしたような驚きの目つきをしている。
「面接の方ですね」
 頭上からいやにダンディーな声が降ってきたので今度は望が驚いた。完全に死角からの返答だったので、びくりとして咄嗟に声が出なかった。
「これからの時間ですと、逸見望【へんみ・のぞむ】さんですね」
「はい。アニメの塾に応募した、逸見です」望は背をそらすようにして相手に答えた。
「御応募ありがとうございます。私は、塾の運営をまかされている野宮、と申します」
 いま望が見上げるようにして対面した長身の男性・野宮氏は、スリーピーススーツで身を固めていた。ダンディーながら穏やかな声質にぴったりの柔和な顔が、黒縁の眼鏡をかけて微笑んでいる。野宮氏は左腕を曲げて時計をみると、
「ちょっと早いですが、前の人の面接はもう終わっています。このまま面接してよいか、聞いてきましょう」
 野宮氏は望の目の前を通り過ぎて左へと進んでいった。あらためて望はフロアを見渡すと、向かい合わせに机が並べられ、社員たちがそれぞれに仕事をしている。作業の姿からするとアニメーターではないようだ。むしろ普通のオフィスという感じだ。机の並びを通り過ぎ野宮氏が向かう先には、ガラス張りで出来た小さめの部屋があった。
 ああ、あそこが名高い「水槽」か。プロデューサー専用の部屋だ。テレビで観たことがある。野宮氏はガラスの扉を開けて中に声を掛けている。「水槽」の中で喋っていた二人の男性は野宮氏の声掛けでこちらへ振り向いた。望は遠くから確認した。朴監督と鱸木プロデューサーだった。彼らが面接の相手なのだった。

 

(その2へつづく)

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gと烙印/村塾編~00【前書き】

 物語『gと烙印/村塾編』をお届けします。
  ◆
 この物語は、わたしがジブリに入社するきっかけになった、アニメ演出家養成塾《東小金井村塾》での経験を《半ば・虚構化》して語ったものです。
  ◆
 東小金井村塾はスタジオジブリが開いた若者向けのアニメ塾でした。
 95年に第一期(塾長・高畑勲)、そして98年に第二期(塾長・宮崎駿)がそれぞれ一年間、毎週末に開催されました。
  ◆
 わたし(石曽根)は第一期の塾生であり、この塾での《活躍》が評価されてジブリに入社することになるのですが、その《奇妙な経緯》は、本文を読んで楽しんでください。
  ◆
 これは《物語》です。《真実そのまま》の事実をお伝えしてはいません。《嘘》だろと言われても否定できません。しかし《書く》にあたって、《真実を書く》とはどう実現し得るものでしょうか?
 それはともかく、この《物語》を《嘘》にしている点は大きく言って、ふたつあります。
 ひとつは曖昧になった記憶の補強、もうひとつは当時の塾で未解決だった討議に、25年を経てわたしなりの《解答》を出している点です。
 書いた本人の感触としては《嘘3割・本当7割》という感じです。
  ◆
 いまこれを読んでいるひとのなかには、実際にこの塾に通っていた《当事者》もいることでしょう。そのあなたにとって、この《物語》はどんな読後感を呼び起こすでしょうか?
 塾のあの独特な雰囲気、ないし特異な緊張感が思い出されたでしょうか?
 それともこいつ(石曽根)は、あの塾をこんな風に体感していたのかと、四半世紀ぶりに《謎が解けた》と思うでしょうか?
 書くという営み自体がはらむ《嘘が1割》、記憶を補強して《嘘がもう1割》、そして25年間忘れずに考え続けた成果を加えて《嘘の最後の1割》、合計の《嘘3割》なのです。
  ◆
 25年以上、あの経験を考えつづけ、その総決算をこのような形で《書き残す》。《物語》として。
 こんなことを成し遂げる人間は、《関係者》が大勢いるなかで、わたしだけだろうと自負しています。その《執念》の面で。
 実際、わたしの内でこの経験は25年以上の間、生きつづけ、燃え盛りつづけたのです。それほどの《衝撃》だったのです。どう言葉にしていいかわからないまま、どんどん年月が過ぎていきました。
 そして先日、どうにか・うまくコントロールして(まず一回目として)なんとか書き終えることができました。
 切実さが消えぬこの思いこそが、《真実7割》を担保しているのだと思っています。
 この《物語》を読みながら、あなたの内に、ふと錯覚のように・何がしかの感情がよぎるかもしれません。
 おそらくそれが、《あの塾の真実》であり、そして《わたしが経験した・奇妙な生の真実》でもあると思うのです。
  ◆
 《嘘》であることを加味してでも《再現》してみせたかった、あの塾という《経験》。
 嘘、嘘と強調してしまったので、警戒して読むひとがいるかもしれませんね。けれど、続々と登場する事件とその経緯・シチュエーションは、いかに不自然に見えようとも、これだけは99%・本当のことです。
 真実が嘘を凌駕しているはずです。
  ◆
 この《物語》を読んでくださって、そこ描かれた経験のなにがしかを、あなたも体感してくださったなら、わたしがこの物語をネットの片隅に置いてみた甲斐があるというものです。
  ◆
 前置きが長くなりました。
 どうぞ《g(ジブリ)と烙印/(東小金井)村塾編》をお楽しみください。

 

(本文その1へつづく)

animeteniwoha.hatenablog.com

【質問箱】RE~その8(第70問目)で終わりです

最後の70問目だけ、異常に長い回答になってしまったので、この質疑だけで項目「その8」にします。
このだらだらと、終わりの見えない、迷路のような文章が、ぼくのブログ記事の特徴です。
なんとか辛抱して読んでみての感想をお聞かせ願えたら、幸いです。

 

★質問70
宮崎さんに対して、どういった感情を当時と現在と、思っていらっしゃいますか?

■回答70
これは意外と考えてこなかった問いですね。
今回一番驚かされた質問です。

わたしが宮崎さんの口から、「お前には才能がある。だからジブリに来るんだ!」とラブコールをもらったとき、うれしさがなかったわけではないですね。

ぼくも中学生、高校生のころ、いっぱしのジブリファンでした。
みなさんがジブリや宮崎さんに憧れを抱く気持ちはわかります。

でも、ぼくは大学生のときに一度、「ジブリ的なもの」を切り捨てたんですよね。
この世にありとある映画のなかにあって、ジブリは「one of them」に過ぎないと。
それは強がりではなく、本気で思っていました。学生時代に膨大な数の映画を見続けて、自然と訪れた感慨ですね。

だから「東小金井村塾」で高畑勲さんと言葉を交わすことが出来ると知ったときは、憧れなど全然なくて、対等で議論したい、と思ったのです。

その結果、噂を聞いて宮崎さんが感心してしまった。
宮崎さんにとって、どこか頭があがらない存在だった高畑さんだというのに、その存在に臆することなく議論をして、それなりに勝ちを納めている石曽根という若造は、ある意味で驚きだったんでしょうね。
少なくとも、憧れだけで近づいてくる崇拝者とは違った。

だからぼくも、ジブリ入社の誘いを受けて、喜び勇んで、というより、なんだか変なこと・面白いことが始まったぞと。

そういう経緯は楽に書けるんです。
でも、そのときぼくはどんな気持ちで宮崎さんと対面していたのか?となると、いま・うまく表現できないことに気づくのです。

うまくまだ言葉に出来ないでいるのですが、仕方なく・とりあえず《仮説として》言うと、
《判断停止していた》のではないのかな?と思います。
《かつての憧れだった宮崎さんに・ぼくは認められた》と高揚しつつ、《しかし、あれほど否定してきたジブリじゃないのか?ここで懐柔されるのか、お前は?》。
そんな相反する感情のせめぎあいの中で、ひとまず《判断停止して・中立的》な態度で乗り切ってみた、ということなのでしょうか。
あくまで現時点での《仮説》です。
誇らしく思いたい気持ちを必死で押しとどめたのは確かですね。

それに比べれば、いざ働き始めてみれば、宮崎さんはただ「上司として」仕えればいいだけだったので、心境としては楽でしたね。
ぼくも意外に素直に、新人として仕事に励んでいましたしね。
でもたまに宮崎さんに《意見》を求められれば、厳しく率直な意見を、正直背中で冷や汗かきながらも、あえて言って、その答えを聞いた宮崎さんや周囲のメインスタッフが凍りつくという場面が何度もありました。
でもそこまで《言いなり》になってしまったら、ぼくが雇われた《アンチ・ジブリ》である意味はなくなると思って、強がってましたね。
宮崎さんもそれはだんだん呑み込めてきて、『もののけ姫』の終盤になると、絵コンテの進展で迷ってメインスタッフには意見を聞いても、ぼくには振らなくなりましたね。面倒くさいやつ、というより、こいつに意見を求めたら、絵コンテが頓挫しかねないと恐れていたのだと思います。

こんなに長くなってしまい、すみません。
でも、まだ終わりません。

これまでの質疑応答で説明したことですが、演出助手の上司の陰湿ないじめや嫌がらせがその間も続いていたんですが、もう耐えられない、という理由でスタジオを辞めたのではないんですね。
それよりも、このまま『となりの山田くん』の制作に本格的に突入したら、演出助手のチームワークがぎくしゃくしてしまって、業務の阻害を招くだろうなと思って、ここは「’身を引こう」と思ったんです。
ぼくがいなくなったら、他の部署から演出助手が補充されるだろうし、その方が『となりの山田くん』の制作もスムーズに進むだろうし。
となりの山田くん』の企画準備が進んでいる間に、そのひとは周到な根回しを裏でしていて、気づいたときは、制作に突入すればぼくだけが業務上・孤立するようにそのひとはお膳立てしてあったんですね。うわっつらの「愛想のよさ」を活かして、そういう姑息な準備を整えて、ぼくを困らせようとしていたんですね。
ぼくを業務の「生き地獄」にさらそうとしているんだなと気づきましたね。
でも、ぼくは自分がスタジオにいられるかどうか、そんなことはどうでもよくて、ただ、こんな環境を姑息に仕立てる上司の下で仕事してても、仕事自体をまともに覚えられないなと思っただけで、じゃあ、この現場にいても意味ないじゃんって割り切ってしまったんですよね。
そんな意味のない制作現場にいても辛いし・不毛なだけで、仕事覚えられないように仕組まれているんなら、じゃ、別のスタジオに移って、まともな神経持っている上司と仕事した方がいいなと思ったんです。

それで別のスタジオに行くか、それとも大学院に進学して勉強するかの天秤をかけることになった経緯は省略します。
簡単にまとめれば、まず大学院の入試を受けてみて、受かったらどうするかそのとき考えようと。
入試に落ちたら落ちたで、そのときは別のスタジオへ行く道を模索しようと。
実際『もののけ姫』の製作が終わるころ、二、三人のフリーランスのスタッフがぼくのことを好意をもってくれていて、また何かあったら一緒に仕事しようよと声かけてくれていたので、そのひと頼ればどうにかなるだろうしなと。

いよいよスタジオを辞めることをメインスタッフに告げても、上司の演助や制作進行はしらじらとして聞いてましたね。
正直、いなくなってくれてひと安心、と思っていたひともいたと思います。
高畑さんも基本的には非情なひとですから、どうでもいい、って感じでしたね。ああ、そうですか、って。
むしろその外縁のスタッフたちの方が残念がってくれましたね。

こんな話、なんで延々としたかと言うと、宮崎さんの反応を書く上での前フリなんです。

いま現場は高畑さんの作品(『山田くん』)をつくっているところなので、宮崎さんは高畑さんに遠慮して、スタジオには来ないで近所のアトリエで仕事をしていました。
だから宮崎さんがふらっとスタジオに現れたときは、報告するなら今しかないと思って、駆け寄るようにして、ただ言ったんです。
「ぼく、ジブリ辞めて、大学院を受験します」
そう言ったら、宮崎さんは、困ったような顔を隠すように、無理に豪快な笑顔をつくって、
「そうか。お前は《そっち》に行くのか!」
そう言って、ガハハと笑って、行ってしまいました。
すごく正直。照れつつ。恥じらいつつ。そして残念そうだった。
ごめんなさい、って、心から思いました。期待に沿えず、ごめんなさいって。

ジブリを辞めてからは、ぼくはスタジオジブリにたまに・数年に一度顔を出す「その他大勢」みたいな感じになりました。
ただ、大学院に進んでから数年して、新しく入学した後輩の院生がアニメ研究を専門にするひとだったんです。
困ったなあと思っていたところへ、いよいよそのひとがゼミ発表をするということになったんです。
当時研究室では、ジブリの話題をぼくに振ることは公然とタブーになっていたのですが、そのひとはおそるおそるという感じで、どうかぼくのゼミ発表に来てくださいとお願いされたので、仕方なく行きました。
その当時、ぼくはアニメそのものが大嫌いになっていたので、ジブリを辞めて以来ほとんどアニメを観ていなかったのです。
唯一、『千と千尋』ロードショーのとき「東小金井村塾」の仲間と一緒に観に行って、突っ込みどころ満載な出来だなと思って、帰りに寄った喫茶店でさんざん悪口を仲間の前で言ってました。でも、そのときはそれだけで終わっていました。

でも、その院生のゼミ発表のとき参考上映ということで、宮崎さんの作品を上映したときです。最初に上映されたのが『もののけ姫』の1シーンだったんです。
あのとき、一体何が起きたんだろう?
すべてが《視えて》しまう、と思ったのです。
その瞬間映し出される画面がどんな(複数の)素材で
・どんな風に出来ているかが、瞬時に《視て》とれて、すべての効果がわかったのです。

わかりやすさを優先して説明してしまうなら、まずはジブリで経験した「ラッシュフィルム」のことを説明した方がいいですね。
アニメーションをいちから作っていって、ぼくは演出助手として、すべての工程で、毎回毎回素材の仕上がりをチェックする作業をしていって、その積み重ねの上で最終的に、その成果が現れるのが「ラッシュフィルム」上映なんです。ここで究極的に・その素材の完成度が試される、それが「ラッシュフィルム」上映なんです。
以前もこの話を聞いたひともいるだろうし、アニメの専門家なら当然知っていることだと思いますが、いま初めて「ラッシュ」という作業を知ろうとする読者のひともいると思いますので、繰り返しになりますが、書きます。

ラッシュ(フィルム)とは、映画本編でのカットの順番とは関係なく、制作の進行の過程で、撮影まで終わってフィルムになって仕上がったカットから順に、本編での順番とは関係なく、そのつど一本の短いフィルムとしてつないで、スタッフたちにだけ見せるために上映する暫定的なフィルムが「ラッシュ」と言います。
そんなラッシュフィルムを、ジブリでは・『もののけ姫』のとき、毎週金曜日の午前中に、一階ダイニングルームに上映機を持ってきて、窓に暗幕を引いてスタッフ全員がそろって上映に立ち会ったのです。
上映する意味はただひとつ。ミスがないか、それだけを見つけるために、最低二回は上映されます。
出来上がったばかりのカットを、順番関係なくつないで上映されるのです。
その上映を観ながら、作画なら作画、背景なら背景、仕上げなら仕上げ、撮影なら撮影が、それぞれの部門で専門的なミスがないかを集中して、視るのです。
そのなかで、縦割り的に・部門ごとに見るのを・横断して見ている存在は(少なくとも)ふたりいました。
それは監督と演出助手です。
監督は総合的な責任を負うのだから当然です。
そして演出助手は、部署間を調整し、部署間の素材同士の整合性をつねに気をつけて日々の作業をしているわけですから、必然的に総合的な視線でそれらラッシュフィルムを視るのです。

ぼくはただの新米の・ぺーぺーの演出助手でしかなかった。
でもぼくは、非力ながら、自分にだって気づけることはあるはずだと思って、全神経を集中して画面を凝視していました。
いや、凝視ではないですね。カットが切り替わるごとに、どんなカットが始まるか視た瞬間に、そのカットがそれまでどんな工程を経て、どんなことに気をつけてチェックしてきたか、そのひとつひとつの注意すべきポイントをざっと頭によみがえらせて、投影されているほんの短い瞬間に、画面を隈なく、何十箇所にわたって画面を瞬間的に《視る》。

それはとてもいい訓練になりました。
自分は《視た》のだろうか、その答え合わせはすぐに、宮崎さんと各部署の責任者の間の話し合い・意見交換で明らかになりました。そういう答え合わせを、話し合いを聞きながら確認し、自分ひとりで次はこうしようとか対策を練って次回のラッシュ上映会に臨んだのでした。
そうやって毎週毎週、視る精度をあげようと、ラッシュフィルムが始まると、ぎっと目に力が入りました。
それはもう、ぼくにとって、スタジオで働くあいだに、《デフォルト》になった視線でした。

しかしラッシュフィルムを視るときに発動したこの視線が、ジブリを辞めたあとも生きていたことを教えてくれたのは、大学院でのあのゼミに参加したときに立ち会った参考上映だったのでした。
あの上映会がなかったら、ぼくの学問的関心はまったく違うことへと赴き、まったく違う道へと進んでいたと思います。
けれどあのゼミでぼくの《開眼》してしまったのでした。
そしてその本領がはじめて発揮されたときでもありまいた。
つまりそれは、無数のポイントを即座に見分ける《現場の目》でありつつ、大学院で鍛えていった《分析・分類する目》がそれに添えられていたのです。
いま簡単に振り返って、こうまとめて書くことはたやすいことです。
でも、この《視線が・発動》したのは20年も前のことであり、それが《アニメ表現論》として《一度目の完成》に至ったのは数年前のことだ。
その間には十数年にわたる《沈黙・模索》の時間が必要だったのです。これは本当にしんどかった。
さほど才能に恵まれていなかったわたしは、案内してくれるひと・助言してくれるひとがほとんどおらず、むしろぼくの視線を軽んじ・否定するひとに巡り合うばかりで、十数年の時間でたった二、三人の理解者の巡り合いだけを信じて耐え続けてきたのでした。

嫌いになってしまったはずのアニメを、しかし、あのゼミで経験してしまった決定的な《違和感》にとことんまで・こだわった結果、いまだにアニメが好きになれないというのに、使命感だけでやってきたのが自称《アニメ表現論》の、十数年かかった立ち上がりなのでした。

皮肉なことだけれど、アニメの・なかなか解けないこの《謎》のためにぼくはずるずるとアニメに《分析的に・研究として》関わりを持つ羽目になったのでした。
ジブリを辞めてからも、定期的にスタジオを訪れたのは、まだ完成途上のアニメ論の、その途中報告を届けに行くためでした。数年に一度の頻度でぼくは何らかの中途報告が出来上がるとスタジオ訪問を繰り返しました。
宮崎さんにもその途中経過をその都度渡しました。そのたびに宮崎さんはなぜか歓待してくれ、アトリエのキッチンで手ずからコーヒーを淹れてくれ、いつもそうなるのだが、ぼくの近況報告を聞いているはずだったのに、いつの間にか宮崎さんの熱弁を一方的に聞かされるのでした。

ここまで書いてきて、ようやく質問の趣旨に戻ろう。
《宮崎さんに現在、どんな感情を持っているか?そして、それは過去のそれと、どう違いますか?》

ここまでくどくどと説明してきたので何となく納得してもらえると思うのですが、ぼくの・宮崎さんに対する感情は、フィギュアスケートになぞられば、何回転・ひねりをしているか、わからないほどに・もつれているのです。
だから、宮崎さんといま対峙する自分の姿勢を、正確に説明するにはその《もつれ》を丁寧にほどかないといけないわけです。
そして、この《もつれ具合の・重症度》にいまさら気づいたぼくは、その《もつれ》をほどくことすら・ためらわれるほど、その重症度に途方にくれているのです。それぐらいは読んでいるひとにも伝わっているかなと思うのですが。

ここまで延々と書いてきて、ひとつだけは、確かに言えることはある、とは思います。
ぼくは、誰も見たことのない・宮崎アニメの姿を知ったのだということ。
その新たな宮崎アニメの姿は、雑誌『熱風』での一年間の連載で、おおよそのことを描けたと思うのです。
宣伝。ぼくのアニメ論の連載は2021年4月号から2022年3月号に掲載されています。メルカリでうまく探せば3000円ほどで手に入るはず。あるいは公立図書館で『熱風』を収蔵しているところが近所にないか調べてみてもみるのも有効な策です。

しかし『熱風』連載の反響はほとんどありませんでした。
だから今回、画像投稿がバズったとき、これを利用してどんどん資料を投稿してフォロワーを増やそうとしたのも、ぼくのアニメ論を世に知らしめるための《方便》でした。
結果、ジブリの給与明細公開という《汚名》とひきかえに多くのユーザーにフォローしてもらえました。
それをどう有効に・誠実に活用するかは、今回の質問箱をはじめ、ひとつひとつのぼくの活動がどんな風にみなさんが判断するか、厳しいジャッジに委ねられているのだと思います。

この質問箱を書き直している最中に、【アニメてにをは・基礎講座その1】は遂にアクセス1万回突破を成し遂げています。
【アニメてにをは】はじめての、万単位のアクセスです。
数を競い・誇ることに、どれほど価値があるか疑問です。
9,995アクセスと10,000アクセスは、5アクセス違うだけなのに、桁が違うことで一喜一憂するのはどうかとは思います。
本当に興味を持って【アニメてにをは】を読んでくれているひとは1,000人前後だと思います。

それはさておき、ジブリを辞めてもスタジオを訪れ、宮崎さんに挨拶にいくのを数年おきに繰り返しているのも、不本意というか・事故に遭遇しているように始めたアニメ論の進捗をその都度、宮崎さんやお世話になったスタッフの方に報告したかったからです。
アニメ研究を進めていなかったら、とうにスタジオを訪れることはなくなっていたでしょう。第一、訪れる理由がありませんからね、それ以外に。
でも相手をしてくれたスタッフや宮崎さんは、ぼくの真意を図りかねていたと思います。
でも『熱風』の連載を終わってみて、ぼくを出迎えるスタッフや宮崎さんはどう変化しているのか?

そうですね。ぼくはいつだって、宮崎さんとは《挑戦的》にしか接することが出来なかったのですね。その対面の初めから。自分を試すようにしてしか、宮崎さんに対し得ない。
スタジオで働いた当時の上司部下の関係であれ、スタジオを辞めてからの不思議に寛大に出迎えてくれる宮崎さんであれ、ぼくはぼくで、その心持ちや心境の温度差・暖かみの変化はあれど、最初から最後まで、宮崎さんとは《対決/対峙するように・自分を試すように》しか、宮崎さんと顔を合わすことが出来ないのです。

ぼくはそもそもジブリの想像力の《埒外》として評価されて、スタジオに降り立ったのでした。
でも、働いていく過程で自分が《埒外なり、アンチなり》である看板を下ろして、スタジオの空気・雰囲気に溶け込んでしまってもよかったのでした。
あるいはジブリを辞めてからも、甘えるようにスタジオを訪れてもよかったのかもしれません。
でもぼくにはそれが出来ないのです。いま過去を総括しても、その心境を《解除》することが出来ません。
ぼくのアニメ論、ジブリアニメの見方論は、もしかしたら、ジブリ作品を観る見方の「one of them」になるかもしれません。そうなれば、その見方は《ジブリ埒外》ではなく《ジブリの想定内》になるでしょう。
だからぼくは気が早く、いま、もっと想定外の《埒外》へと向かって、アニメの見え方を探り始めています。
ぼくはもともとの性分なのか、宮崎さんに奇妙な形で見出されてしまったからなのでしょうか、わからないのですが、《埒外の可能性》にしか興味がないのです。
みんなと歩調を合わせる。「それ、わかる」、そう承認し合うことは大事ですし、ぼくもそんなことを日々積み重ねています。
でも、ぼくの本領は《埒外の可能性》を開拓することだと思っています。
別に宮崎さんに恩を感じているわけでもないですが、常に宮崎アニメなりジブリアニメなり、アニメ全般なりに《埒外の可能性》を掘り進め、未開の地平を開くときこそ、もしかしたら宮崎さんを一番近しく感じているときはないかもしれません。
だって、そうでしょう?誰も見つけていない宮崎アニメの魅力を独自で発見していたら、ジブリファンならみんな鼻高々になりませんか?

 

★終わりです
ぴったり70問だったのですね。
ゴミ箱に捨てた(回答を避けたのは)1問だけ。
いま考えると、あれも答えてみればよかった。

70問目の異常な長さ。
迂回が迂回を呼びつつ、その道程で意外に重要な情報がまぎれこんでいます。
ぼくはこういう書き方をすると「ブログらしいものが書けた!」ってうれしくなってしまうのですが、みなさんはどうでしょう?
ブログのコメントなり、ツイッターでのコメントなりで、感想、ご批判、提案など教えてくだされば、後学の参考にしたいと思います。
最後までお付き合い、ありがとうございました。

 

 

(この項、おわり)

 

(最初から読み返したい方はこちら)

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【質問箱】RE~その7

「質問箱」に集まった質問とその回答、その7です。
今回ぼくにとって(いい意味で)突き刺さる質問が、最後にまとまって来ましたね。

【前回の、その6はこちら】

animeteniwoha.hatenablog.com

 

★質問61
表現すること、とはどういう事だと思いますか?

■回答61
自分にとってゆずれないもの、なんでしょうね。

別に作家だけが「表現」の独占者じゃないと思います。
会社で働いていく過程で・こだわりが出てきたり、家庭をつくっていく過程で・自分が何を探し求めているか知れてきたり、そうして育てられいく子供たちは、何かへと向かって無数の可能性を開いていく。

それらすべてが「表現」だとぼくは思います。

それでも、あたかも作家だけが「表現」すると思われてしまうのは、作家というものが「現実」に根ざさない《仮構の仮説》を立ち上げていく、「奇妙な営み」をしている面が独特に思われてしまうからかと思います。

それは案外、この記事を読んでいるひとたちにこそ共感を呼ぶかもしれませんね。
《虚構の表現》に憑りつかれるって、最初にも言ったとおり、《ゆずれなくて・やむにやまれず》やっているものですしね。

そしてこれも繰り返せば、日々の営みもまた《表現》なのであり、そこに上下関係はない。
むしろ日常を構成するものすべてが《表現》なのであり、それはそれぞれのひとの《ゆずれない・こだわり》から発するものだと《仮定》することによって、その仮定をどこまでも《延長》していったら、どんな新たな世界が広がるのか……
ちょっと頭の隅において考えておきますね。

 


★質問62
これからアニメーターになる人に言葉を贈るならなんて贈りますか?

■回答62
わたしはアニメーターではなく、演出助手だったので、何とも言えません。
それにアニメが好きだったわけでもないので、何か言葉をかける資格はないように思います。

 

 

★質問63
これから先アニメーションはどのような変化をしていくとお考えですか?

■回答63
昨今の動向を知らないので、そんな予想屋みたいなこと、ぼくには答えられません。
ただ、誰かが見落としているアニメの可能性を、ひとつでも多く・拾うことが出来たら、と思いながら、いまもアニメを見続けています。 

 

 

★質問64
高畑監督と討論することは、膨大な知識のある方でないと出来ないことかと思います。当時、大学では何を学んでいらっしゃったのですか?

■回答64
膨大な知識がないと……と考えてる時点で負けです。
高畑さんの苦手な分野や切り口で、一点突破すればいいだけの話で。

大学で何かを学べば高畑さんと闘える!と思う時点で、また負けです。
ぼくは大学の「外」で生きる糧を得てきました。
東京各所を経めぐって、ひたすら映画を観続けました。
高畑さんが読まないタイプの本を偶然・自主的に読んでいました。
自分でも8ミリフィルムで映画を作り、その過程で「作る側」の視点で映画を捉えなおすことを学び、また人間というものを新たに知り初める機会にめぐまれました。
大学では間に合わせのようにフランス文学を専攻し、形だけで大学を卒業しました。 

それらすべては「何かの・準備」ではありませんでした。
「無駄」に終わるかもしれない、「採算・度外視」な生き方をした果てに、それは偶然転がってきたチャンスだっただけです。
その結果、ぼくの後半生は苦しい局面つづきですけれど、不思議と悔いはありません。

今回、ネットの片隅でちょこっと、たまたま目立ってしまった存在に、あなたはいまごろ嫉妬してどうするんですか。
わたしは25年間、ひたすら同じことを発信してきたのですよ。
どうぞ、あなたはあなたなりに、こつこつと何かに励んで結果を出してください。

 

 

★質問65
今は何のお仕事をされているんですか?

■回答65
最近まで普通にサラリーマンやってました。
つい最近、このコロナのご時世でリモートワークでもやっていけそうだ、ってなって、在宅仕事を始めています。
最低限食えればいいので、それよりお金にならない・書き物仕事を本格的にやりたいので、在宅仕事を選びました。
書き物仕事が終わったら、その先はまた考えます。

 

 

★質問66
テレビは見ないとおっしゃっていましたが漫画あたりなどは読んだりするのですか?また読んでいるとしたら好きな或いはしょうげき「うけた漫画と漫画家はいらっしゃいますか?掲載済みであったなら申し訳ありません。

■回答66
テレビのニュースは観ますが、テレビアニメは観ません。
最近ぱったり漫画も読んでいません。
ジブリ在籍当時は松本大洋「ピンポン」、高野文子「棒がいっぽん」は、アニメにしたら面白いだろうなと思っていました。
「ピンポン」はとてもいいスタッフでアニメ化が実現してよかったです。実写映画「ピンポン」はひどかった。あれでもうアニメ化の可能性はなくなった……と思っていただけに。
高野文子さんも「平家物語」に参加していたので、将来的に高野さんの何かの作品を原作に、いいスタッフたちでアニメ化を実現してくれたらいいなと願っています。

 

 

★質問67
カリオストロの城』のOPの構図の良さや序盤のカーチェイスシーンでの軽さ重さの重力の比較や爆弾を避けようとして命中するシーンが作用、反作用を感じて好きなのですが、一連のカットで思うところはありますか?

■回答67
さっそくわたしのアニメ論【アニメのてにをは】を応用していただいて恐縮しております。
でも、本家本元も負けてはおりませんよ。
いつか将来、『カリオストロの城』が【アニメてにをは】の手にかかるときを、楽しみに待っていてください。 

 

 


★質問68
作品づくりにおいて最も重要だと思うことは何ですか。
過去にツイートされていたらすみません。
また、それが重要だと思う理由もよろしければ教えてください。よろしくお願いします。

■回答68
ぼくにはそんな大それたことは言えません。
作品のはじっこで働いていただけですから。

でもおかしいことはおかしい、って言える労働環境は大切ですよね。どこの世界も。 

 

 


★質問69
質問ではないのですが、できればこれからも度々このような機会を設けていただきたいです。

■回答69
25年も前のアニメ事情しか話せないですし、それをジブリの実態として受け取られるには情報として古すぎると思うのです。
だから、25年前の古びた情報を、質問の形で答えを迫られることには、いま疑問を感じています。

今回は最初の試みなので、そのちぐはぐさを確かめることが出来た、という意味では無意味ではなかったと自分では思うのですが……

それに、二、三、考えさせられる真摯な問いかけもあって、それはありがたいと思いました。

続編があるかどうか、しばらく考えさせてください。

 

(最後の質問・第70問の答えがすごく長くなってしまったので、別立てで「その8」にします)

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【質問箱】RE~その6

「質問箱」に集まった質問とその回答、その6です。
当日(頭が疲れて)答えられなかった・大事な質問にも答えて始めています。問題発言もちらほら。


【前回の、その5はこちら】

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★質問51
アニメーター不足が慢性的に問題視されてますが、昔よりアニメーターの国内の絶対数は増えていますか?

■回答51
わたしはシンクタンクではないので答えられません。
適切な回答できるひとに問うてください。 

 

 

★質問52
ジブリで仕事をして勉強になったことは何ですか。仕事面、考え方の面など何でも大丈夫です。

■回答52
●とても理想的な目標をかかげて立ち上げ・運営されている会社・職場であっても、腐った人間たちが根を張っているし、理想を掲げた本人も矛盾していたり、葛藤していたりしていることを知ったこと。
●わたしの上司のような最悪に陰湿で狡猾な人間に巡り合ったこと。この人物はスタッフたちに愛想がよくて評判がよかったのですが、ぼくにだけ悪意に満ちた行為を執拗に仕掛けてきました。「悪人」とはこういうひとなのだなと思いました。残忍な人間にはそれまでも多く会ってきましたが、こういう狡猾さとしつこさは類を見ないものがありましたね。
●この上司に典型的なのですが、自分が業務で身につけたことを、第三者なり新人に教えるための言語化能力が著しく劣っているひとに出会ったことも驚きでしたね。「よく今まで仕事してこれたな」って。
●一方で奥井敦さんや田中直哉さんのように、ずぶの素人でもちょっと一緒に仕事しているだけで「あ、このひと、仕事できる」って分かるんですよね。田中さんは飄々ととぼけつつ、相手のことをしっかり見ていたし、奥井さんは仕事に厳しいけれど人格的な高みがあるから圧倒されました。
●そうですね。奥井さんや田中さんのことを書いていると、あのひとも、このひとも、書いてみたいですが、質問の趣旨から外れますね。
●作画なり、各部署でのそれぞれの技量にはすぐれているものを持っていて、そういう一流とも言える実力を持ったひとが(当時)100人集まっていても、ひとつのアニメ作品を構想することが出来るひとはいない、ということが衝撃的でしたね。
 宮崎さんが将来の作品のためにこんな原作で作品は作れないかって「企画検討会」を会議室で有志スタッフが集まって始めたんですね。
 宮崎さんが十分ほど、どわーっと構想を言うんですよ、例の調子で。
 それで、会議室の三方で宮崎さんを取り囲んだ面々が端からひとりずつ意見を言わされていくわけですよ。
 すると、みんなイエスマンなんですよね。「お説御もっとも」とか「素晴らしいです」とか。
 おいおい、大丈夫か、こいつら?と思って。
 ぼくは真ん中あたりにいるんで、あと3~4分はあるなと思って、ぐわーって、宮崎さんとは全然違う切り口で冒頭から途中までの展開を必死で即興で考えて、でついにぼくの番になったんです。
 ぼくはいま考えついたばかりの別企画案をどーっとしゃべり始めたんです。
 すると場の空気がみるみる悪くなって、視界のなかにいる制作進行とか「お前、黙れ。お前、黙れ」って目でサイン送ってくるし。
 もうその場の・悪いプレッシャーと必死で戦いながら、どれくらいしゃべったんだろう?3~4分ぐらいでしょうか?最後までしゃべり終わったら、シーンと会議室が静まり返って。
 やべ~と思いつつ、でも、お前らがイエスマンだからこうするしかなかったんだよ、って思いつつ、背中に冷や汗タラタラかいて。
 すると宮崎さんがガハハって笑って「じゃ、次」。
 これには後日譚もあります。
 企画会議が終わってみんな残業に戻って、ぼくも作業をしていたら、宮崎さんが通りかかって、
「お前の語りには、なぜか引き込まれるところがあるな」って言って、「でも、ヒロインの魅力が伝わらなかった。そこは宿題な」と付け加えるとガハハと笑って自分の机に戻っていきました。
●質問は「ジブリで仕事しながら勉強になったこと」でしたね。
 一流のひとと仕事が出来て、そのなかで自分がどれだけのことが出来るかを知ったことですね。
 しかし一流のひとと仕事したり、自分のやったことをそのひとに評価されたりすることは、厄介なことに、二流のひと、三流のひとにとっては不愉快でたまらないのですね。
 その相手が一流かそうでないかって、ぼくがジブリで突出して行ってきた流儀を思わずつきつけてしまったときに、反応として如実に出てしまうんで、「あ、しまった、またやっちゃった」って反省するんです。
 これ以上書くと不穏になるので、ここまで。

 

 


★質問53
描いていて、ワクワクした作品はなんですか?

■回答53
ぼくはアニメーターではなく、演出助手だったので、お答えする資格がありません。すみません。 

 

 

★質問54
赤い光弾ジリオンサムライトルーパーはもっと世間で評価されてもいいと思いますが、プロの見解をお願いします。

■回答54
すみません。ぼくは観てないのです。
ぼくは「プロ」でもないですし、アニメマニアでもないので、ご理解ください。
2作品のことは頭の隅に置きましたので、また機会があったら、観ると思います。

 

 

 

 

★質問55
石曽根さん的な観点で映像作品を視るためには作品自体をどういう観点で視ればいいのか、またそのためにどんな勉強をすればいいのかを教えていただきたいです。

■回答55
ぼくみたいに観る……
こういう見方はそもそも、ぼくがジブリで働いていたとき、十数万枚のセル画のチェックを延々と・気が狂いそうになりながらやっていたり、ラッシュフィルムの上映では誰よりも早くミスに気がつくよう心がける・一種の動体視力を磨いたり、という現場での訓練の結果、偶然生まれた「視点」なのです。
よくも悪くも、スタジオでの経験で身に染みつくように芽生えたものなのです。

質問してくださった方は、「石曽根のような観点・視点」にこだわらず、むしろ「他の人はこう見たりしているのに・自分にはこう見えてしまう」という「違和感」から出発して、「あなた独自の観点・視点」を磨くことが一番最適な手段ではないかと思います。

それはアニメの見方ではないかもしれません。実写映画の見方だったり、小説の読み方だったり、日々の観察の仕方だったり、あるいはそういった様々な経験に或る共通の法則に沿っていることに気づいたり……

質問してくださった方はぼくに敬意を覚えてくださるようですが、わたしは大した人間ではありません。
それどころか、わたしはこの25年間、ずっと孤独に無視され続け、それを耐えてきました。
今後もどんな扱いを受けるかわかったものではありません。
それでもいい、それでもやるのだ、というのなら、あなたにはいずれ道が開けていくと思います。
その道が確立したとき、機会があれば、ぼくに教えてください。待っています。

 

 

 

 

★質問56
鈴木敏夫さんと庵野秀明さんの対談で庵野さんがプライベートで度々ジブリに顔を出すと言う旨の発言があったのですが石曽根さんが在籍されていた頃にもそのような事がありましたか?もしあれば印象的なエピソードを教えて頂きたいです。また他にも印象的な来客エピソードがあればお聞かせ願いたいです。

■回答56
テレビシリーズの『エヴァ』で燃え尽きて放心した感じの庵野さんが現れて、宮崎さんがさかんにねぎらっていた姿を覚えています。
他にも来客はありましたが、これ書いていいのかな?というのばかりなので……
あ、あれがあるな。
もののけ姫』も制作が進んで声優陣も決まったところで、サン役の石田ゆり子さんがスタジオへ陣中見舞いに来てくれましたね。
ぼくは遠目に見ていただけですが、すらっとした長身に深紅のロングコートをお召しになられていて、「ああ、芸能人」という感じでしたね。

ジブリは『もののけ姫』を機に、国民的認知を受けて、宮崎さんも一躍国民的映画作家になったわけです。それ以前もマニアには評価されていたのですが、日本人ならジブリなり宮崎駿を知らない者はいないほどの知名度を得たのは『もののけ姫』だと思います。
まだ国民的知名度を得ていなくとも、ジブリに採用された当時、ジブリなり宮崎さんは天の上の存在でした。ぼくもぼくなりに、ジブリマニアだった時期が若いころあったのです。

母は息子の就職先に心配して興信所でジブリのことを調べてもらうほどで、父は東京キー局のテレビマンの親友に翻意の説得を頼んだりもしました。そのテレビマンは誰知らぬ長寿番組の構成作家をしていて、若いころは一時期、テレビアニメの脚本を手伝ったと言っていました。
そのひとが反対した理由は、アニメの世界は「地味で・きつい」ということでした。そして《本物の芸能界》を見ろとばかりに、担当していた番組の打ち合わせや収録の様子を見せ、偶然明石家さんまが沢山の取り巻きに盛んに話をしながら廊下をすれ違う様にも遭遇しました。

それに比べれば確かにジブリは《地味》でした。
でもだからこそ、「ここは信頼できる場所だ」とも思ったのでした。
ジブリについては愚痴が多くなってしまうのですが、はねっかえりを演じていたぼくにも、親しみを覚えてくれるスタッフが当時なぜか沢山いて、けっこう居心地よく・そして粘り強くスタジオの仕事に打ち込んでいたのです。
あの選択肢はぼくの中には全くなかったのですが、テレビ業界の方にもし転んでいたら、ぼくの人生や人生観はまったく違うものになっていたでしょう。
いまも昔も《華やかさ》には警戒する自分がいます。
そんな自分にとってジブリは、それなりに《精神的な意味での・厚生福祉》がしっかりしていたので、居心地よく働けたというのが、真実の別の一面もあります。

5~6年に一度はスタジオを訪れる機会があります。
でも自分都合で辞めたという申し訳なさがあるので、《アニメに関する収穫物》が出来たときだけスタジオに訪れます。
いまも《地味な》現場を見て、ほっとしている自分がいます。
だから、宮崎さんやジブリを神格化しているひとにとっては、ぼくの置かれた立場をうらやましいと思ってのはあるかもしれませんが、そういう関係になるためには、一度はこの《地味な仕事》に《打ちのめされる》必要があるのです。宮崎さんといい意味でも最悪な意味でも「同じ釜の飯を食った」仲にならないといけません。
そして、そうなったとき、あなたにとって宮崎さんは厳しいだけの上司になっているだろうし、ジブリというスタジオはただ《地味に大変な職場》に変化していることでしょう。

スペシャルなものが・スペシャルでなくなるとき》はじめてあなたはジブリの一員なるのです。それがうらやましく聞こえたとしても、スタッフひとりひとりにとっては《大したことない・ただのリアル》なのです。
うまく説明できなかった。
この件の説明はまた別の機会に。

 

 

 


★質問57
30後半ですがアニメ会社を目指し、バイトですがアニメ会社に入ることができました。
まだ若く志高い人たちに負けないよう頑張っていきたいと思っています。
仕事をするうえで心がけることはありますでしょうか?

■回答57
2年で辞めてしまったぼくの反省として言うと、清濁併せ呑みつつ「続けていくこと」が一番大事だと思います。 

 

 

 

 

★質問58
大卒でジブリに入ったのでしょうか?
■回答58
はい、そうです。

 

 

 

 

★質問59
かなり頭の良い印象を受けているのですが、俗に言う大手企業などではなくジブリに入社した理由を伺いたいです。

■回答59
損得勘定だけで生きている人ばかりではない、それだけのことです。 

 

 

 


★質問60
最近の若者について思うことはありますか?

■回答60
ぼくは文化人じゃないので、こういう質問は遠慮させてください。 

 

 

 

(その7に続いておわり)

animeteniwoha.hatenablog.com